◆ 「2190日目」の夢実現 ◆ U-20ホンジュラス代表GKコーチに正式に就任しました。 | 元U-20ホンジュラス代表GKコーチ・山野陽嗣の「世界一危険な国での挑戦」

◆ 「2190日目」の夢実現 ◆ U-20ホンジュラス代表GKコーチに正式に就任しました。


ホンジュラスサッカー協会と契約!①

 

 この日の事は、一生、忘れる事ができません。


 長かった…。あまりにも長過ぎる道のりだった…。



 初めて「ホンジュラス代表」への想いを抱いたのが、2008年…。それまでは「日本代表」への強い想いをもって夢を追いかけていた僕が、「北京五輪に出場するホンジュラス代表の力に何とかなりたい」と思い、当時、居た南アフリカの地を離れて中国へと飛び立ちます

 しかし…。すでに五輪は開幕している状況下で僕がホンジュラス代表の正式なスタッフになって働ける訳もなく…。ホンジュラス人サポーターやTV局などの通訳や身の回りのサポートをボランティアで行う事しかできませんでした。ホンジュラスも3戦全敗でグループリーグ敗退し、失望感だけが残る結果となってしまいました…。


 全ての始まりは、この「2008年」から…。


 ここから僕の、「ホンジュラス代表入り」に対する長い挑戦が始まりました。


※2008年。北京五輪ホンジュラス代表の選手たちと飛行機の中で。彼らを「正式なホンジュラス代表の一員」として助ける事はできませんでした。ちなみに中央の黒人選手は、昨年、パリーヤス・オネにてチームメイトとなりました。まさか当時は後にチームメイトになるなんて、思いもよりませんでした。人生の不思議さを改めて感じる今日この頃です…。

アミーゴたちと機内で!



 次なる「挑戦」は、2010年1月…。

 当時、立正大学体育会サッカー部でGKコーチを務めていた僕は、冬のオフを利用して3年ぶりにホンジュラスへと渡ります。目的は…「南アフリカW杯で、28年ぶりにW杯出場を決めたホンジュラス代表の正式な一員となって手助けをし、恩返しがしたい」…でした。

 軍事クーデターが発生し、治安が2005~06年に僕が居た頃よりもさらに悪化していて正に「命懸け」の渡航でしたが、「ホンジュラスのために」という強い気持ちが僕を無意識のうちにホンジュラスへと向かわせました。

 しかし…。W杯直前合宿に訪問して当時の代表監督レイナルド・ルエダと対面するも、すでにW杯に向けてメンバーが完全に固まっているチームの中に僕が入れる訳もなく…。ならばとホンジュラスサッカー協会の副会長に直談判するも、全く相手にされず門前払いを食らい…またしても僕の「夢」は、実現する事はありませんでした…。


※2010年。ホンジュラスを28年ぶりのW杯出場に導いた名将レイナルド・ルエダと。実は現エクアドル代表監督で、ホンジュラスとブラジルW杯のグループリーグで対戦!!凄い縁と巡り合わせです。彼とホンジュラスサッカー協会からは、日本代表とのW杯直前親善試合のマッチメイクを頼まれましたが、実現させてあげる事ができず…。ホンジュラスも2敗1分でグループリーグ敗退し、南アの地を早々に去る事に…。またしてもホンジュラスの力になる事ができず、今回も大きな失望感だけが残りました…。

con Reinaldo Rueda en Morazan (2010.1.9)



※当時のホンジュラスの大統領(クーデター政権)ロベルト・ミチェレッティと、大統領官邸で日本人として初めて対面し、僕の「ホンジュラス代表への想い」、「ホンジュラスという国への想い」を伝えました。

Yoji con Roberto Micheletti 2010 Enero



 2008年、2010年と「2度」の大きな失敗も、僕の中の「ホンジュラス代表」に対する想いは冷めるどころか、より一層、強くなっていきました。

 そして、2012年7月…。「3度目の挑戦」を敢行します。

 「ロンドン五輪に出場するホンジュラス代表の正式な一員となり、今度こそ力になって恩返しがしたい」

 …その想いだけで、2年半ぶりに再びホンジュラスに上陸

 しかし…。チームはすでに「ロンドン五輪への旅立ち10日前」という状況で、ここから正式な代表メンバーになれるはずもなく…。僕の挑戦は、またしても…またしても、失敗に終わりました。


※2012年。「自分は日本人だが、ことサッカー人としてはホンジュラス人だ。日本との試合はホンジュラスを応援する。ホンジュラスには日本に勝って欲しい」 ホンジュラスのTV番組に出演し、僕のホンジュラスに対する熱き想いを訴えました。司会者は「歴史的な事」、「信じられない」と驚きを隠せませんでしたが、僕はあくまでも本気でした。






※ロンドン五輪で日本代表と対戦するホンジュラス代表について、日刊スポーツの取材に応じました

2102年7月4日(水)ニッカンスポーツ記事。



TBSの「ひるおび!」にもホンジュラスから間接的に出演し、日本人に馴染みのないホンジュラスサッカーについて解説しました。

TBS「ひるおび!」2012年8月1日(水)①






 2008年、2010年、2012年…「3度」に渡る挑戦も、ことごとく全て失敗…。それでも僕の中の「ホンジュラス代表」に対する想いに陰りはありませんでしたが、アルビレックス新潟ユースGKコーチを体調不良で辞任して以降、心身の状態がなかなか回復せず、「サッカー」自体に対する想いが沸いてこない状況に陥りました。それどころか、絶望的な状況に「人生」に対する希望すらも見出せなくなっていました。「もう、サッカー界に復帰する事はない。復帰したいという気持ちもない」…そういう心境でした。


 そんな中…。


 2012年12月。1通のメールが僕のもとに届きます。差出人は、2005年にホンジュラスの強豪クラブ・マラトン時代にお世話になった、ハイロ・リオス監督でした。

 「現在ホンジュラス1部リーグのレアル・ソシエダで監督を務めている。GKコーチとしてYojiが必要だ」 …というオファーでした。

 不思議でした。それまでもうサッカーに対するモチベーションが沸かず、「サッカーに関わって生きていくのは金輪際やめよう」と思っていた僕が、このハイロ・リオスからの…「ホンジュラスからの」オファーを受けた瞬間…「サッカーに対する想い」が一瞬にして蘇ったのです。僕の中の、消えかけていた「サッカーに対する想い」を再び蘇らせたのは…やはり「ホンジュラス」でした。

 …とは言え、6年ぶりに「ホンジュラスの地に帰って生活する」という決断を下すのは、容易ではありませんでした。「世界最悪」とも言われる治安の悪さ、「中米最貧国の1つ」と言われる貧困…。行って、生きて日本に帰れる保障はありません。その事は、ホンジュラスに過去に居た事があるからこそ、よく分かっていました。

 それでも…。「このまま日本でこんな絶望的な状況に陥っているなら、死んでいるのと同じだ。ならば、愛するホンジュラスで命懸けの挑戦をしよう」

 …そう決心し、全てを捨てて、あらゆるリスクを背負ってホンジュラスへと旅立つ事を決断しました。


 僕は上記の2008年、2010年、2012年の「3度の大きな失敗」を経て、1つ痛切に感じていた事がありました。それは…

 「ホンジュラス代表の正式な一員になるためには、大会直前に行っても駄目だ。この夢を実現するにはホンジュラス最高峰リーグでGKコーチを務めて結果を出し、自分の能力をサッカー協会に認めさせてオファーを受ける以外に道はない

 このハイロ・リオスからのオファーは夢実現の最後のチャンス…そう感じました。

 こうして希望と不安に包まれながら「6年ぶりの帰還」を果たしたホンジュラスでしたが、案の定…数え切れないほどの修羅場が僕に襲い掛かります。

 給料未払い問題、レアル・ソシエダで「33年間の人生の中で最も衝撃的」な突然の解雇、パリーヤス・オネで
不衛生度MAX・プライバシー0(ゼロ)・サソリも出る最強最低クラブハウスでの地獄の生活、イミグレーションに強制送還されそうになる事件家がないアミーゴに裏切られて「2度目の解雇」、今年復帰したレアル・ソシエダで書類作業が行われずベンチ入りできない問題…これらはまだまだ氷山の一角…。挙げればキリがないほどの理不尽かつ不可解な問題の連続で、何度となく「絶体絶命のピンチ」に陥りました。

 いつ活動不能に陥ってもおかしくない…そういう崖っぷちの状況に何度も何度も追い詰められましたが、僕の「ホンジュラス代表」に対する想いだけは消えませんでした。どんな事があっても決して心は折れませんでした。「この先に必ず『光』がある」…そう信じて、有効期限が今年の2月だった日本帰国の航空券を捨ててまで、ホンジュラスでの危険な活動を続けました。

 この修羅場と呼ぶのも生ぬるいほどの壮絶な状況、夢実現への道筋が全く見えない絶望的な状況の中で、僕がやった事はたった「1つ」だけでした


 今やるべき事、今、目の前にある事を、ただただ無心で、魂込めて全力でやる。それから先の事は神様に任せて、あとは天命を待つのみ


 多くの人々に助けられ、たくさんの良きチームメイトにも恵まれ、レアル・ソシエダでは1部昇格1年目のチームで「リーグ最小失点」と「準優勝」という歴史的快挙を達成。パリーヤス・オネでも同じく1部昇格1年目のチームで、(まだブログには書けていませんが)ホンジュラスリーグの50年間の歴史の中で初の快挙を達成。今年も復帰したレアル・ソシエダにて、好成績を残す事ができました。まるで何かに導かれるかのように…どこに行っても神懸り的な結果を出す事に成功しました。


※2012-2013・後期リーグ。レアル・ソシエダにて「リーグ最小失点」と「準優勝」を達成。

Gran Final VS Olimpia en Tegus.5.19⑨



※2013-2014・前期リーグ。パリーヤス・オネにて達成したホンジュラスリーグ史上初の快挙に関しては、いつかブログに書こうと思います。

パリーヤス・オネのGKたちと2013



 僕にとっては10年分くらいに感じる、長い長い過酷な1年間の戦いの中で、「ホンジュラス代表入り」するために必要だと考えていた結果を全チーム、全シーズンで出した後…。

 とうとう、「運命の電話」が僕のもとにかかってきました。U-20ホンジュラス代表の合宿に、GKコーチとして初召集されたのです

 「最初の合宿には別のGKコーチが居たんだが、監督が気に食わなかったので解雇した。その代わりにYojiを召集した」との事でした。…が、これですんなり契約できるほど甘い世界ではありませんでした。ここから再び、長い戦いが始まるのです…。

 「この合宿で、YojiのGKコーチとしての能力をテストする。もし能力がなければ、残念ながらアウト。契約はしない」 …こう、監督から告げられました。

 こうして異様な緊張感の中で始まった初のU-20ホンジュラス代表合宿。これまで選手としては世界各国で数々のテストを受けてきましたが、「コーチ」としてテストを受けるのはこれが初めて…。一体どういうGK練習をすべきなのか?迷いましたが、僕の出した答えは…

 「見栄えが良い派手な応用練習より、地味でもこのチームの若きGKたちに足りない基礎技術を強化する練習を徹底的に行おう。基礎がなければ、応用をやっても意味がない。例え監督にどう思われても、彼らに必要な基礎練習をやろう」 …でした。

 「テスト」の場となった合宿で、僕は信念を貫いて基礎練習を徹底的に行いました。しかし、僕の中では簡単な基礎練習でも、U-20の若きGKたちは僕のイメージ通りにできない事が多く、その度に1つ1つ説明しなければなりません。傍からはノッキングしているように見え、決して見栄えは良くなかったと思います。果たして監督から、どう評価されるのか…?

 水曜日にU-20代表の合宿が終了し、監督からは「2日後の金曜日に合否の電話をする」と伝えられました。

 約束の金曜日がきました。監督からは、電話がありません。たまりかねて僕の方から電話をしました。すると監督は出るには出ましたが、あいまいな返答だけをされてごまかされ、電話を切られました。

 その後も数度に渡って監督には電話をしましたが、今度は出てさせもらえなくなりました。

 こうして、一切、何もないまま1ヶ月が経過…。ホンジュラスは日本のように「要らない」場合でも丁寧に知らせの電話をくれるような国ではありません。この状況はホンジュラスでは「アウト」意味します。2度目の合宿が1週間後に迫り、レアル・ソシエダのチームメイトの選手に召集の電話が監督からかかってきても、僕には全く電話がかかってきませんでした。

 終わった…。せっかくの「代表入り」の夢実現のチャンスを生かせなかった…。言葉では言い表せないほどのショックと絶望感、喪失感に包まれました。


 そんな中…。2度目の合宿が始まる、前日。もはや諦めかけていた時に、突然、監督から電話がかかってきたのです。果たして、何を告げられるのか…?監督が発した言葉は…。


 「合宿でYojiの仕事を見させてもらった。非常にプロフェッショナルかつ緻密にオーガナイズされた働きぶりで、チームへの適応力もあり、必ず我々に大きなプラスの力をもたらしてくれると確信した。Yojiが必要だ。我々U-20ホンジュラス代表の正式な一員として、ぜひ共に戦って欲しい


 監督からU-20ホンジュラス代表GKコーチとして正式就任のオファーを受けました!!テストに魂で合格!!ではなぜ、こんなにも連絡が遅れたのか…?監督に聞くと、「この1ヶ月間に、Yojiの事を知る監督やコーチにYojiに関する情報収集をしていた」との事。そんな中で決め手となったのが、僕の事を知る監督やコーチたちの言葉だったいう…。

 「聞く人みんなが、Yojiの事を『プロフェッショナルで非常に素晴らしいGKコーチだ』と絶賛していた。これで俺も、Yojiなら必ず我々U-20代表の力になってくれるという思いが確信に変わった

 …今までどんな苦しい状況下でも「いつ、どこで、誰が見ているか分からない」と魂込めて全身全霊で活動してきた事が、報われた瞬間でした


 さあ、これで一件落着、契約だ…。と、いかないのが、ホンジュラス…。ここから、また、さらに長い戦いが始まるのです…。

 監督からは前述の電話の中で「今回の2度目の合宿中に契約を行おう」と言われました。しかし…。参加した【2度目の合宿】の中で、契約書が出てくる事はありませんでした。

 なぜなんだ…?「今度こそ」という思いで、「3度目の召集」を受けた【エルサルバドル遠征】に参加。ところが…。またしても、契約書が出てくる事はありませんでした。

 おかしい。話が違う…。そういう思いは当然ありましたが、僕はただ結果を出す事のみに集中しました。「契約をする」とは言われましたが、しょせんは「口約束」…。そんなの、この国では全く信用できません。それで、何度、痛い目に遭ってきた事か…。「とにかく、実際、目の前に契約書が出てくるまでは、全GKに良いプレーをさせ、『結果』を出し続けるしかない」…そう考えていました。

 間違いなく、ここで「結果」が出ていなければ、上記した「契約」の話はなかったものにされていた事でしょう。

 だが…。これまでの人生同様、そして昨年からの1年以上に渡るホンジュラスリーグでの戦い同様、今回も必要な時に、必要な結果が、神懸り的に出ました

 参加した4度に渡るU-20ホンジュラス代表合宿の中で行われた練習試合、U-20エルサルバドル代表とのアウェーの親善試合など、全5試合を「3勝2分」で「無敗」という好結果を出す事に成功します。

 
 そして…。


 この4度目の合宿の後…(監督からオファーを受けて、この時点ですでに1ヶ月以上経過…)。ホンジュラスサッカー協会幹部から、電話がかかってきました。

 「協会に来い」と電話の中で言われた僕は、約束の時間に約束の部屋に行くと…。机の上には、念願の契約書が置かれていました。


 「ホンジュラス代表の正式な一員として働きたい」 …


長年のが、ついに実現した瞬間でした。




ホンジュラスサッカー協会と契約!②


ホンジュラスサッカー協会と契約!③



 
 初めて「ホンジュラス代表」への想いを抱いた2008年の挑戦以来、実に6年2190日目夢実現


 この「2190日間」の中で、「ホンジュラス代表の正式な一員になりたい」という夢が叶った日は、契約したこの日、たった「1日」のみ。この「1日」のために、2000日以上の「夢が叶わない日々」を積み重ねてきました。本当に気が遠くなるような日々でした。ここには「辿り着けない」と思った事もありました。それでも、「ただただ無心で今やるべき事、今、目の前にある事を魂込めて全力でやる」1日を2000日以上、積み重ねて、僕はやっと、ここに辿り着く事ができました

 一体、なぜ、僕はここまで辿り着く事ができたのか…?なぜ、ことごとく必要な時に必要な結果を出す事ができたのか?たくさん優秀なGKコーチがホンジュラスには居る中で、なぜ僕がU-20代表GKコーチに選ばれたのか?…正直、分かりません。ただ、1つだけ自信をもって言える事があります。それは…

 「俺の『ホンジュラス代表になりたい』という想いは、どんなホンジュラス人にも負けてなかった。いかなるホンジュラス人GKコーチよりも、俺の『ホンジュラス代表GKコーチになりたい』という気持ちは勝っていた」 …これだけは胸を張って言えます。ホンジュラス人よりもホンジュラス代表に対する強い想いがあるくらいじゃないと、この国で代表GKコーチになる事なんて、不可能です。

 凄まじい紆余曲折を経て日本人として初めて取得した【ホンジュラスサッカー協会公認GKコーチングライセンス】も、ここに辿り着いた要因の1つです。そして上記した2008年、2010年、2012年の「失敗」も、その挑戦をした事で知り合った人脈に何度となく助けられてここまで辿り着いたので、実は失敗などではなかったのです。全てが「小さな成功」であり、それら「小さな成功」が積み重ねる事で徐々に線となって繋がり、ここまで辿り着いたのです。どれか1つでも欠けていたなら、僕はここには辿り着かなかった事でしょう。今まで長年やってきた事…何一つ、無駄な事などなかったのです。


 これだけ気が遠くなるような過酷な日々を「2190日」も積み重ねて、ようやく…ようやく辿り着いたU-20ホンジュラス代表GKコーチの座ですが、契約期間は来月「2014年7月まで」と超短期…。一体、なぜなのか?

 実はこの7月に、来年、行われる「U-20ニュージーランドW杯2015」の中米予選が始まるのです。そう…。この中米予選で敗退すると、契約終了…。その後の契約延長を勝ち取るには、予選を突破する以外に道はありません。そして、例えその中米予選を突破しても、その後は強豪メキシコ、アメリカや、カリブ海地区の国も含む「北中米カリブ海地区最終予選」を勝ち抜かねばなりません。つまり、「勝利」以外に今の座を継続する術はないのです。

 だけど…。今のところ、不思議とあまりプレッシャーは感じていません。だって上記したように、これまでだって1試合1試合、いや、1日の練習1つ1つから「結果」を求められるような常に崖っぷちの状況下で、それを乗り越えて「結果」を出してきたんですから。 


 僕の挑戦は、これで終わりではありません。これは、まだまだ「始まり」です。僕には、

ホンジュラスの「フル代表」のGKコーチになってW杯に出場し、日本を倒してベスト16以上に進出する

 …という、確固たる目標であり夢があります。


 そこに辿り着くには、次は何千日、積み重ねていかなければならないのか分かりません。

 それでも僕はこれからも、「ただただ無心で今やるべき事、今、目の前にある事を魂込めて全力でやる」1日を、コツコツ積み重ねて夢を実現させていきます。必ず…。

 
 ここまで辿り着けたのは、温かく支えて下さった皆様のおかげです。本当に、ありがとうございました。皆様には、心からの感謝の気持ちで一杯です。

 
 そして、家族…。父さん、母さん、今まで支えてくれて、本当にありがとう。絶対にニュージーランドに連れて行くけえのう!!


 これからも「笑顔」の挑戦、応援よろしくお願いします!!


笑顔の挑戦2014




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