『健全学』の蘭語原書は? | 特許翻訳 A to Z

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1992年5月から、フリーランスで特許翻訳者をしています。

○○雰囲気下の謎、再び」からの続きです。

『健全学』の冒頭に、英國の醫官「ロベルト・ゼエムス・メン」の著書をオランダの醫人「イ・ルデ・ブロイン・コプス」が訳したものを邦訳した旨、その邦訳の原書が1856年刊の「ゲソンドヘイドレール」だという旨が明記されています。

ひとまず「ゲソンドヘイドレール」をそのままGoogleで検索したところ、『江戸時代における養生書の研究:身体運動の養生的価値をめぐって』という北海道大学の紀要がヒットしました。
そこには、次のように記載されています。

 

「ゲソンドヘイドレールと名くる書なり。ゲソンドは無病健全の義,レールは学科の義なり,今之を訳して健全学と題す」というから,本書は「Gesundheitslehre」の邦訳と見られる。


たしかにGesundheitslehreという単語は存在しますが、これはドイツ語です。
一応、ドイツ政府のデジタル図書館「
Deutsche Digitale Bibliothek」を検索したところ、タイトルにGesundheitslehreを含む書籍はヒットするものの、求めているものではなさそうです。

江戸末期の日本ではドイツ語よりオランダ語のほうが広まっていた事情と、そもそも『健全学』にオランダ人が訳したことが書かれていることから、オランダ語を探します。
健康は「
gezondheid」ですから、「ゲソンドヘイド」の部分は、おそらくこれでしょう。
問題は、「レール」です。

近そうな語を総当たりしたところ、英語のdoctrine、teachingに相当する語で「leer」がありました。
試しに、これで複合語にしてみます。「
gezondheidsleer」です。
その上でオランダ王立図書館のDelpherで書名に入れ、年代を1870年までに絞って検索。

5冊ヒットしますが、著者が違います。

それなら著者で検索すると、どうなるでしょうか。

国会図書館デジタルの『健全学』の書誌にはイ・ルデ・ブロイン・コプスの綴りがなかったので、早稲田大学の古典籍データベースで取得しました。
(古典籍データベースを『健全学』で検索すると、「Mann, Robert James, 1817-1886」、「Corpus, Y Le De Broin」、「杉田 玄端, 1818-1889」という3つの名前が出てきます。)

この綴りを使ってDelpherを検索したのですが、該当しそうなものは、出てきません。
そこで、念のため国会図書館サーチで『健全学』を確認してみたところ・・・・・

健全學 6巻の書誌情報に、次のように出ています。

著者標目 Mann, Robert James, 1817-1886
著者標目 Kops, J. L. de Bruijn
著者 杉田擴玄端 譯
注記 英文原著のオランダ語訳本の翻訳
注記 原タイトル: Eenvoudige gezondheidsleer


あれ??
コプスの綴りが違いますね。そしてついでに、原書の書名も出てきました。
あらためて、上述のDelpherを「Bruijn Eenvoudige gezondheidsleer」の3語で検索。

結果、見つかりました。
Boeken Googlecollectieとある5冊の中です。おそらく、グーグルブックスですね。
王立の図書館がGoogleと連動しているあたり、いかにも現代です。

1859年刊行の『Catalogus van boeken in de navolgende vakken van wetenschap, kunst en letteren ・・・』というカタログのような書籍に、存在が出ています。


1856年は、『健全学』に記載のあった年号と一致します。

著者名については早稲田の古典籍データベースは全然違う綴りですが、Delpherの検索で出てきたカタログが正しければ、国会図書館もスペルミス。Jではなく、Iですね。

実際、イ・ルデ・ブロイン・コプスというカタカナには、JよりIのほうが合っています。

ところが・・・
Delpherの検索で、この本自体がヒットしています。
そのカバーページから、著者名が書かれた部分を抜粋します。



ご覧のように、「J」です。そしてBruijnではなく、Bruynとなっています。
こうなると、どれが正しいのか、よくわかりません。
昔の資料というのは、案外いい加減なものですね(笑)。

とにかく見つかりましたから、『健全学』で拾っていた日本語に対応するオランダ語を抜粋します。

 

萬物中に布満す、此瓦斯雰圍氣中には純粋に現存して窒素の中に
De zuurstof, welke de zonderlinge eigenschap heeft om een stuk zwarte houtskool geheel uit elkander te nemen en tot een doorschijnend gas te maken, is een der belangrijkste van al de grondstoffen der natuur.  Dat gas is overal en in alles.  In de dampkringslucht is het aanwezig in den zuiveren staat, en zweeft daar vrijelijk rond te midden van de stikstof -- ongeveer twintig deeltjes zuurstof bij tachtig deeltjes stikstof (of 1 tegen 5), -- maar in de lucht vereenigen zij zich niet met de stikstof, beide blijven naast elkaar.
(p.10)

酸素の大聚積槽は雰圍氣なり
De groote vergaarbak van zuurstof is de dampkringslucht, en van daaruit vliegt zij aanhoudend op alles aan, en verbindt hare atomen met die der andere ligchamen.  En toch, wanneer men nu de vrije dampkringslucht onderzoekt, bevat deze altijd dezelfde verhouding zuurstof, 21 zuurstof tegen 79 stikstof. (p.11)
 

 

「此瓦斯雰圍氣中には」の部分は「In de dampkringslucht」、2つ目の「雰圍氣なり」は「(is de) dampkringslucht」に対応しています。
日本語の「雰囲気」「瓦斯雰囲気」は、「dampkringslucht」を訳したもののようですね。

『健全学』は、辞書の乏しい江戸時代の翻訳としては信じられないほど良くできています。
昔の人、本当にすごい・・・。

もうひとつ、『Eenvoudige gezondheidsleer』の19ページ、『健全学』の35コマ目から。

酸素と窒素が親和せずに混ざると雰囲気になる、と。

ほかに、原書にはlucht単独でも出ていて、『健全学』では「瓦斯」「氣」などと訳されています。
gewone luchtと形容詞を伴う原語が「大氣」となっているところもありました。
waterstof-gasが「水素瓦斯」で、dampkringlucht, lucht, gasの厳密な訳し分けは、されていないようです。

参考までに、Dutch-Dutchの辞書dampkringを引いたところ、「luchtlaag om de aarde; = atmosfeer (水野訳:地球のまわりにある空気の層;atmosfeer」と説明されています。

同義とされている atmosfeerは、「1 dampkring 2 de omringende lucht op een bep. plaats 3 (natuurkunde) eenheid van gasspanning 4 omgeving, milieu, sfeer」でした。

さらにluchtは「gas dat voornamelijk uit stikstof en zuurstof bestaat(水野訳:主に窒素と酸素とからなる気体」ですので、複合語「dampkringslucht」は、「(地球を)取り囲んでいる窒素と酸素とからなる気体」、あたりでしょうか。

前回も示したように、明治時代の国語辞典には雰囲気で「大気」に類する意味しか出てきませんから、最初はここから始まったのでしょう。
まさに、「雰=もやもやした気体」+「囲む」+「気」です。

これは、「窒素雰囲気下」の「雰囲気」とは、用法が少し違います

ただまあ、せっかくですし、寄り道ついでにもう少し当時の学術分野における「雰囲気」を調べます。

続きは次回に。


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