『雪国』から考える、日本の英語教育 | 特許翻訳 A to Z

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1992年5月から、フリーランスで特許翻訳者をしています。

 これからは国際化の時代だから、日本人も英語くらい使えないと困る――。昔から、繰り返し叫ばれてきた言説です。1980年代にはすでにメディアに存在していた表現で、少なく見積もっても30年は経過しています。

 

 もし、本当に英語がないと困るのなら、とっくの昔に日本中が困り果てているでしょう。ところが現実には、大半の国民は英語がなくても日常生活に不自由をしていません。せいぜい、「使えれば、もっとよいかも」という程度です。それなのに、いまや小学校にまで英語教育が導入され、日本人の英語至上主義は過熱する一方です。

 

 マーケティングでも薬の治験でも何でも、通常、小規模で成功した試みの規模を拡大することはあっても、小さく始めて失敗したものを大きく広げることはありません。それが英語に関しては、なぜか中学高校で失敗した教育が小学校まで押し広げられています。ただ、どれだけ学習開始年齢を下げても、現状の教育方法に効果があるとは思えず……。語彙が増えることはあるとしても、単語や文法を暗記するだけでは、多くの場合に英語を使いこなせるようにはなりませんし。なぜなら、英語と日本語では物事に対する捉え方が異なり、語彙や文法だけの問題ではないからですね。

 

 こうした捉え方の違いを示すのに、たびたび引き合いに出されるくだりがあります。川端康成の『雪国』の冒頭です。

 

  国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。

  The train came out of the long tunnel into the snow country. The earth lay white under the night sky. The train pulled up at a signal stop.
  (直訳:列車が長いトンネルを出て雪国に入った。夜空の下に白い大地が広がっていた。列車は、信号所に止まった。)

 

 英文は日本文学の翻訳を多く手掛けた日本学者のサイデンステッカーによるもので、当時、英語版に対する書評はおおむね好意的なものでした。なかには、それまでに翻訳された日本の小説の中で、一番西洋人の心に訴えるものだと断定する評価まであったようです*1)。

 

 ここで、3つの文を個別にみていくと、日本語では一文目が汽車の中から外を眺めた描写になっています。このため、読み手には車内にいる人物が想起されるでしょう。翻って英文は、汽車を上から見下ろす形で表現されました。このような視点の違いを、言語学者の金谷武洋が「虫の視点」と「神の視点」と表現しています。「神の視点」は上空から見下ろす視点で、文が表す事象を客観的に捉えているのに対し、「虫の視点」は地上にとどまり、自らを客観視することはありません。まさに言い得て妙ですね。

 

 

 『雪国』に見られる日英の差は、ほかにもあります。たとえば、「国境(くにざかい)」とは上野国と越後国との境とのことですが、当時の「くに」は一般に「province」で訳されます。この単語は欧米諸国の「州」や「県」の意味でも用いられ、国家の行政区画を示しています。

 

 一方、サイデンステッカーは、「くに」を「country」と翻訳しました。「country」には「地域」「領域」などに相当する意味もあることから、日本語で漠然と用いられる「雪国」に対する訳としては許容されると思いますが、仮にその意味で訳したとすれば、「くにざかい」の意味は削除されたことになります。

 

 さらに、「夜の底が白くなった」という文に対する日本人の受け止め方には、大きくわけて2通りあることがわかっています。翻訳講座で講師をする際に何を連想するか受講者に聞くことがあるのですが、おおむね、東雲の空と雪で覆われた地面とで半々に割れるからです。つまり、日本語では、少なくとも2通りの解釈の余地を残しているとも言えるでしょう。

 

 これに対して「The earth lay white」という英文から得られる解釈は、白い大地の一択です。また、日本語の白く「なった」という表現からは、白くない底の存在が想起されます。存在しないものが何かに「なる」ことは通常あり得ないためです。そうだとすれば、「夜」は夜空ではなく地面も含めた暗闇と考えるほうが自然で、ここでも英訳によって意味の限定がなされています。

 

 このように、わずか3つの文だけでも、さまざまな違いがみられます。こうした中、事実を淡々と描写することから始まるサイデンステッカー訳の『Snow Country』は、西洋人から高く評価されました。原著者の川端康成は日本人として初めてノーベル文学賞を受けたことでも知られていますが、受賞者の選考は海外でなされることから、いくら日本語で優れた作品を生み出しても、それだけでは受賞には至りません。川端自身、受賞の半分はサイデンステッカーの功績だと考えていたとも伝えられています。

 

 最後に、上で引用したくだりを巷で話題のChatGPTに英訳させると、次のように出力されました。

  When I emerged from the long tunnel at the border, I found myself in a snowy land. The depths of the night had turned white. A train came to a stop at the signal station.

 汽車の中にいる人物の視点を残したまま、見事に「直訳」されています。

 ただし、3文目でtrainに不定冠詞を伴っていますので、冒頭に出てくる人物が乗っているのとは別の汽車を車内から眺めている視点でしょうか。

(トンネルから出てきた人物が徒歩だった、という解釈も成り立ちます。)

 

 全体として文法的な誤りはありませんが、この英文では、おそらくノーベル文学賞は夢のまた夢だったでしょう。

 

 比較のために、Google翻訳DeepLの訳もあげておきます。

 

Google翻訳
  When we passed through the long tunnel at the border, we found ourselves in a snowy country. The depths of the night turned white. The train stopped at the signal station.


DeepL
  After a long tunnel at the border, the country was snowbound. The bottom of the night turned white. The train stopped at a signal station.

 

 

 いずれにしろ、英語を使えるようになるには発想の転換が必要で、そのことを理解するには、中学1年生でもまだ早いようにも思います。だからといって、日本人が英語の母語話者と同じように自然に英語を習得できるような生活環境も、日本にはほとんど存在しません。

 

 こうした中、最新のテクノロジーを利用して自分に合った方法でスキルを高めること自体は良いのですが、英語学習のために時間を使えば、その分、国語なり何なり、ほかのどこかで時間を削らなければならないのも事実です。

 

 英語にかぎらず、どの言語でも必要になった人が必要に応じて学習すればよいのであって、日本で「英語くらい使えないと困る」ことなど、あり得ないはず。

 AI時代だからこそなおさら、自分に必要なものは何なのか、いまいちど立ち止まって考えてみたいものですね。

 

*1) 『川端康成作品選』中央公論社(1968年)p.549