「雰囲気」は、翻訳で生まれた学術用語 | 特許翻訳 A to Z

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1992年5月から、フリーランスで特許翻訳者をしています。

前回からの続きです。

国会図書館デジタルをもう少し調べると、『博物新編補遺』という1869(明治2)年発行の書籍に、次のくだりが見つかりました。

強調は、こちらで付しています。

 

雰圍氣論
世人常ニ空気ト唱ヘ学者之ヲ雰圍氣ト名クル一種ノ気状体アリテ地球ノ全周ヲ包メリ (中略) 地面ニ近キ雰囲気ハ数種ノ瓦斯ヨリ合成ス其比量酸素瓦斯一分、窒素瓦斯四分、及、炭素瓦斯ノ極小量トナリ (以下略)
 
国会図書館デジタルコレクション『博物新編補遺. 中』(コマ番号21)


国会図書館の書誌情報によれば、上記の『博物新編』はチャンブル(Ephraim Chambers)という人の著書を小幡篤次郎という人が翻訳しています。

上中下の3冊組で、上巻に「此原書ハ英国ノ士チャンブル氏所著「イントロデュクション、ツ、ゼ、サイケンス」ト云フ書ニシテ萬学小引トモイフヘキ書ナリ蓋シ此書ハ・・・」と明記されていますから、この原書を探しました。

すると・・・

文部省『百科全書』が底本とした Chambers's Information for the People を刊行したのは、チェンバーズ社(W. & R. Chambers)である。この出版社は William Chambers(1800-1883)とRobert Chambers(1802-1871)の兄弟が 1832 年にエジンバラで設立したものであり
(中略)
このChambers's Encyclopaedia は、Ephraim Chambers(1680?-1740)のCyclopaedia (1728)と混同されることもあるが、無関係である。
(中略)
明治初期に広く使用された自然科学の入門書である小幡篤次郎訳『博物新編補遺』(1869 [明治 2])は、ロバート・チェンバーズ著 Introduction to the Science(1836)の 1861 年版を、福沢諭吉訳『童蒙教草』(1872 [明治 5])は同社の Moral Class-Book(1839)を各々底本とした翻訳書である(松永, 2005)。

長沼美香子 著 論文『開化啓蒙期の翻訳行為』 p.21~22より抜粋


強調は、こちらで付しました。
「イントロデュクション、ツ、ゼ、サイケンス」が「Introduction to the Science」なのは間違いないとして、著者は・・・?
引用元になっている「松永 2005」は、参考文献一覧によると次の文献です。

  松永俊男(2005).「チェンバーズ『インフォメーション』と文部省『百科全書』について」
  『Chambers's Information for the People 〔復刻版〕別冊日本語解説』 ユーリカ・プレス.

これは中身を確認できていないのですが、『Introduction to the Science』は1871年の新版が見つかりました。
1861年版ではないですが、ざっと比較してみたところ、ほぼ『博物新編補遺』と対訳になっているように見えます。
「雰囲気論」に対応する部分も、ありました。

(p.54から抜粋)

どうやら英語圏でも、atmosphereは最初、学術用語だったようです。

そして著者は W & R Chambers、出版地はエジンバラになっています。
おそらく、国会図書館のほうが誤りだろうと思います。

話を戻すと、1867年に杉田玄端がオランダ語dampkringsluchtを「瓦斯雰圍氣」あるいは「雰圍氣」と訳し、2年後の1869年には小幡篤次郎が英語のatmosphereを「雰圍氣」と訳し、さらに、この連載の初回で示したように1873年に刊行された独和辞典でドイツ語のAtmosphäreとLufthimmelに、「氛圍氣」の対訳がついています。

起点言語を問わず、同じ訳になっていますね。

試しにONLINE ETYMOLOGY DICTIONARYでatmosphereを引いたところ、次のように説明されています。

 

1630s, atmosphaera (modern form from 1670s), "gaseous envelop surrounding the earth," from Modern Latin atmosphaera, from Greek atmos "vapor, steam" (see atmo-) + sphaira "sphere" (see sphere).  In old science, "vaporous air," which was considered a part of the earth and a contamination of the lower part of the air (n.1).
(中略)
First used in English in connection with the Moon, which, as it turns out, practically has none.

It is observed in the solary eclipses, that there is sometimes a great trepidation about the body of the moon, from which we may likewise argue an atmosphaera, since we cannot well conceive what so probable a cause there should be of such an appearance as this, Quod radii solares a vaporibus lunam ambitntibus fuerint intercisi, that the sun-beams were broken and refracted by the vapours that encompassed the moon. [Rev. John Wilkins, "Discovery of New World or Discourse tending to prove that it probable there may be another World in the Moon," 1638]

Figurative sense of "surrounding influence, mental or moral environment" is c. 1800.


オランダ語の語義を蘭蘭辞典で引いたときもそうでしたが、地球のまわりの気体を意味していた語を、日本では「雰囲気」と訳した。それだけのことだと思います。

ここまでに出てきた「雰囲気」は、いずれも under an/the atmosphere of nitrogenの「雰囲気」とは用法が少し違います。
ただ、事実として「雰囲気」が翻訳によって生まれた学術用語だということは、間違いないでしょう。

これがいつ頃から、「○○雰囲気下」という用法に、つながっていったのか。
続きは、次回に。

 


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■「雰囲気」+α
複数の辞書を、確認すると・・・
 


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