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穴と橋とあれやらこれやら

初めまして。ヤフーブログ出身、隧道や橋といった土木構造物などを訪ねた記録を、時系列無視で記事にしています。古い情報にご注意を。その他、雑多なネタを展開中。

2022年8月28日、中国地方縦断迷走の最終日。この日のネタで記事にしているのは、朝方の川上橋中原橋奥井谷隧道、最終盤の力谷隧道。今宵ご紹介するのは、17時を回りそろそろラストスパートというころに立ち寄ったネタ物件。

 

 

いきなり、ドン。

まあビジュアル的な面白みは皆無な橋。場所はこちら。写真は南側(西側)より。

 

 

 

 

じゃあ何が面白いのかといえば、もう記事タイトルからほぼ出オチなんだが、

「スキー橋」。いやこれ!

 

個人的に、土器セン橋と並んで鳥取県西部のネタ橋双璧と位置付けている名前ありき物件。これは下調べ段階のQ地図様で見つけて、銘板があるのを確認したため是非にと立ち寄った次第。当該記事でも書いたが、珍名な橋に限って銘板や親柱もない嘆かわしいケースが多いので、ここは極めて重要なんですな、個人的に。

 

 

 

 

お誕生日は、

「昭和三十八年一月」。

 

 

 

 

橋上から望む、下流側。

川の名は、石見川。

 

 

 

 

そしてこちら、上流側。

向こうに見える山は岡山県との県境をなす。

 

 

 

 

渡って、北側(東側)より。

なぜこの橋にスキー橋と命名したのか。周囲には現在スキー場はないようだし…と思っていたが、記事を書くにあたり調べてみたら、やはりかつてはあったようだ。

 

上の写真で橋を渡って進むと、ほどなく小さな山越えとともに岡山県新見市新郷高瀬の野原地区へと入る。合併前には阿哲郡新郷町であったこの地はかつてスキー場で知られた場所であり、越県ながら最寄りとなる伯備線の上石見駅は、シーズンには多くのスキー客で大賑わいだったというのだから、現在の状況からは想像もつかない。

 

 

 

 

その大勢のスキー客が歩いて?向かう際に通ったのが、この橋だったわけだ。

なるほど、ちゃんと歴史的背景に裏打ちされたお名前だったわけだね。

 

それとは違うスキー場だと思うのだが、新郷高瀬地区には近年まで神郷第一スキー場なるゲレンデが存在していたものの、2016年ごろに閉業してしまったようだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

最後に一応、サイドアングルも。

まあ、あくまでビジュアルはつまんないんだけどね。

 

人に歴史ありと同じく、橋にも歴史あり、ってことで。

 

 

 

以上。

 

 

 

想いっきり余談なんだが、「人に歴史あり」って慣用句なのかと思ってたら、昔のテレビ番組の名前だった…って、皆さんご存じでした?わたくし知らなんだわ。

 

 

2011年7月23日、第二次鎌倉探索。この日のネタで記事にしているのは、某所の仏画トンネル音無橋極楽洞。今宵ご紹介するのは、この日の最後に訪ねた物件。大忙しだった(謎)。

 

 

というのもこの物件、

鎌倉文学館の敷地内にあるため、いつでも見られるわけじゃない。

 

鎌倉文学館の閉門は17時、そして現在時刻は16時53分。…あ、誰か立ってる。

 

 

 

 

案の定、ゲートにいた守衛さんにはもうすぐ閉門だから、と断られたのだが、すぐそこのトンネルをササッと見たいだけなので、とお願いして何とか入れていただいた。

 

そう、マジでゲートからはほんの数十mで、

あるんですな、隧道が。

 

 

 

 

はいこちら。

めっちゃ暗い写真で恐縮だが、石組みの隧道だ。場所はざっくりこちら

 

 

 

 

ちゃんとお名前があって、

「招鶴洞」という。

 

 

 

 

扁額もあったが、暗くてうまく撮れず。

取り付けられているイラストはなんなのか不明だが、夏休み期間だったので、文学館の催しに関連するものかと思われる。

 

 

 

 

とにかく暗いので、また時間もないので、

好みじゃないがフラッシュオンで洞内を。

 

 

 

 

抜けて振り返り。

こちらはまだ陽当たりがあり、比較的まともに鑑賞できた…って、時間がない(笑)。

 

ここ鎌倉文学館のある場所は、1890年ごろに造られた侯爵・前田利嗣の鎌倉別邸であり、昭和58年に前田家より鎌倉市が譲り受けて文学館として開館したものだということなので、この招鶴洞も、別邸造営時に造られたのではと思われる。

 

 

鎌倉市のホームページによれば、

この建物は、昭和11年旧加賀藩前田家第16代当主前田利為氏が建築したもので、相模湾を見下ろす谷戸の中腹に位置しており、当時の鎌倉の別荘を代表する建物の一つです。

 

ということで、ほんとは文学館の建物こそが見ものなんだと思うが、わたくしはここでドロン。いやほら、時間が(笑)。

 

 

 

 

17時ピッタリ、守衛さんにお礼を言って退出。

まあ広大な敷地なんで、あんな時間に来てもう入れませんよ、といわれるのはよくわかる。

 

しかも今思えば、もしかして本来はここで入場料的なものを払わなければいけなかった?のかもしれない。だとすればあの時の守衛さん、めっちゃ融通を聞かせてくださったことになるなあ。感謝。

 

 

ちなみに鎌倉文学館、現在大規模な修繕中で、2029(令和11)年4月ごろの再開館予定だとのこと。もし訪問される方はご注意を。

 

 

以上。

 

 

今宵は一発ネタ。

 

 

はい、ドン。

「人間優先」。

 

地上の生物ヒエラルキーの最上位に位置すると思い込んでいる人類に対し、「人間優先」を鳥が訴えているという痛烈な皮肉に満ちた…みたいなことではなく、一般的には「歩行者優先」と表記されるであろう標識である。

 

 

これは埼玉県富士見市某所。撮影したのはもう10年近くも前の2015年5月30日で、このころ出張で足しげく埼玉入りしていたわたくしに、地元であるたからったさんが教えてくださったネタだった。その節はありがとうございました。

 

 

 

 

このあたりからが、

「人間優先」の真骨頂なのか?

 

 

記事を書くにあたり調べてみたら、富士見市内にはおよそ10か所にこの「人間優先」表示があり、路面へのペイントなど含めバリエーションも5種類くらいあるのだとか。「コンプリートしたら何かをめっちゃ優先してもらえる」…みたいなイベントやったら面白いのにね(適当)。

 

 

しかしこれ、富士見市オリジナルなのかね?

 

 

 

2018年4月30日、三重県北東部をシバキ回す旅にて訪ねた物件をご紹介。この日のネタで記事にしているのは、解散後の辨天橋(ホラー記事?)のみ…たぶん。

 

 

ここんとこ山神さんが相次いで近辺のネタを記事にされているので、便乗してやっとく。もしかして見つけておられないんじゃないかなって。性格悪い(笑)。

 

 

 

とか言いながら、わたくしも長らく全然気づいてなくて。

このストビューで…わかりますかね?

 

おろろnさんプロデュースのツアーだったこの日、ようやく初訪問となった次第。

 

 

 

 

いやもう、ねえ。

こういうもんがポンとあるから侮れないんですわこのあたりは。

 

なんとも立派な煉瓦製ポータルで、小ぶりながらも風格は十分。そして恐ろしく状態がいい。だいぶ前に記事にした十三石山隧道も、開渠のままであればこういう重厚な姿が拝めただろうに。

 

 

 

 

ポイントはなんといっても、

この鋸歯状デンティル。

 

 

 

 

個人的にキューンときたのは、

中央の一個のみ斜めでなくまっすぐに積まれていること。不動のセンターってか(謎)。ニクイわ~。裏側どうなってんだろう?

 

 

 

 

 

 

 

 

隧道を背に、水路を見た景。

時期的には(当日は4月30日)水路が使われがちな時期だと思うんだが、全然水が流れていなかった。廃水路じゃないと思うんだが。

 

 

 

 

ちょっと追いかけてみたら、

うむ、これは現役でしょ。

 

 

 

 

さて、隧道内部の様子。

水路系にありがちな欠円アーチ、側壁は小口面を焼過煉瓦で積んでおり、こだわりを感じる。

 

にしても狭い。めっちゃ狭い。これはハナから入ろうとは思わない(フラグ)

 

 

 

 

…いや、このお方はそうではなかった。

tellさん、アンタなにしてんすか(笑)。

 

 

膝に~?

 

 

ちぎったゴミ袋を~?

 

 

巻いて~?

 

 

 

 

はい皆さん!

これが正しい変態の在り方です。わたくしのようなハンパものではかないませぬ…。

 

 

 

 

こんなんやってるその間に、

 

関西本線の列車が通り過ぎて行った。

 

 

 

 

tellさんが潜ってたのは3~4分だったかな?

覚えてるのは、「あー濡れたー!」って声(笑)。

 

 

 

 

いやいやほんまに、

さすがでございます。…しかし一体どうやって体の向きを変えたんだこの人?

 

 

 

 

最後に、反対側はというと、

こんなんなっております。延長は、30mもないくらいかな。

 

 

 

 

ガッツリ改修されてるのだが、坑口のキワまでいって無理やり内部をズームで撮ると…

煉瓦ですなーこっち側も。

 

この日の撮影はすべてスマホで、しかもズームとなると画質低下が著しいので、これが限界だった。これまたさすがに入ろうとは思えない…ですよね、普通は。

 

 

 

これがいつできたものなのか、もちろん不明(まあ調べてもないんだが)。ただ、ちょっとした妄想はしている。

 

この近辺の関西本線は1890(明治23)年に関西鉄道の手によって開通した区間(柘植~四日市)で、ここ加太周辺には開通時を含む明治・大正期に建造されて今も現役で活躍している多くの鉄道施設があり、それらは現在「加太の鉄道遺産」として行政や地元の方々により積極的にアピールされている。

その中には煉瓦製の橋梁や架道橋などももちろんあるわけなのだが、この用水の隧道も装飾性豊かな意匠を見るにつけ、そして場所が近接していることもあり、どうしても共通するテイストを感じてしまうのだ。

 

 

遺産群の中で記事にしているのはこの第一六五号橋梁だけだが、

どうですかね?往時の煉瓦橋梁とかだいたいこんな感じでしょ?といわれたらまあそうなんだけど。

 

 

なので我が妄想としては、鉄道工事を請け負った会社に、工事終了後に(または同時期に)、同地区内ということでついでにやってもらうように依頼したのじゃないかな~と。で、余った煉瓦でやったるわ、みたいな。

 

いや、ここまでいくと妄想が過ぎるとは思うけど、案外そういうことも考えられるのではないかな、程度で。

 

 

 

 

てなわけで山神さん、これご存じでした?

 

 

 

ちなみに遺産関連で他に記事にしているものとしては、中在家信号場もございます。

 

 

 

以上。

 

 

 

 

自分でも思い入れの強い記事のひとつである、「飛水峡の飛騨川右岸歩道」。未読の方はぜひ先にご覧いただきたい。

 

で、5回にわたって連載したものの、道の正体に関してはわからずじまいとなっていたのだが、このほどみんな大好き「道との遭遇」公式YouTubeチャンネルにこの道のことが上がっててビックリした。早速見てみたら…どうやら正体が判明したようだ。

 

 

 

念のためリンクも。

 

 

結論からいえば、やはりわたくしも第一に推していた「白川街道の旧道」が正解なようだ。トリさん(石井あつこさん)が近隣の方に聞き取って確認されているので間違いないだろう。馬車などの普及で道が手狭となり、現在の左岸の白川街道が開かれたのが明治28年ということで、その前身となる道なので、ガチな古道だったわけだ。

なぜ先に右岸歩道が開かれたのかといえば、日当たりがよく、雪も溶けやすいためとのお話を聞き、思わず唸った。なるほどね~…。

 

 

いやまあ、スッキリした。…が、ひとつだけ気になったこと。

 


動画の中でトリさんがこの道について「3年くらい前に訪ねたことがあるんですけど」といってるのだが、この動画が撮影されたのがいつなのか不明なので、2020年9月22日に訪問したわたくしよりも先なのか後なのか、そこが気になっていて。…ええ、器の小さな男ですから…(笑)。


ちなみに記事公開は、ウチには珍しくわずか一週間後の9月29日。いかにこのネタにテンション上がってたか、わかろうというもの。

 

いや、まあ先んじてた方が嬉しいのもあるけど、わたくしの記事を見て行ってくれたんだったらもっと嬉しいな、とかね。

 

 

 

てなわけで、トリさんありがとうございました(勝手にお礼)。