今宵は追憶の鉄道ネタ。STAY HOMETOWN@滋賀シリーズが終わったらぜひやろうと思っていたやつでございます。きっかけは、先ごろChinuさんがアップされたコチラの記事でした。
この記事の中で登場する、今は亡き中在家信号場の痕跡写真。すでに廃止されてたなんて全然知らなかったのですが、実はわたくし、この信号場を現役時代に訪ねたことがありまして、その時の写真を探してみたのでご紹介。
記録を辿った結果、訪問したのは昭和57年10月11日、わたくし15歳の秋でございます(笑)。
加太駅から歩きでやってきました。まずはこの写真。
ここは「加太の大築堤」。SL全盛期には、超有名な撮影地だった所でございます。
ここで撮った、
DE10とDD51重連の貨物列車。
撮影地として有名だったのは、この撮影位置左手前の斜面を登ったあたり。大築堤をゆく列車を俯瞰で撮れるポイントでしたが、今どうなってるのかは不明…。
地図を貼っときます。「加太中在家」と表記されてるところが上の写真の撮影地点付近でございます。
こうして見ると、大崖川橋梁のすぐ近くなんですな。
で、そっからまた線路際をえっちらおっちらと…ようやく信号場付近へと到達。
この写真は信号場手前で撮ったもので、
交換待ちするため、待避線に入ってきた貨物列車。
つうか、めっちゃ短いっすなこれ。前後にDD51がついたプッシュプルながら、タンク車2両と車掌車だけとか。珍しくないですか?
で、しばし後。
亀山方面行き普通列車が通過して行きました、と。
そしてそして、この写真が、1982(昭和57)年当時の中在家信号場の様子。
これも記録を辿ると、通過中の急行「志摩」(たぶん下り、すなわち鳥羽行き)のようです。
客扱いはしていなかったものの短いホームがありまして、詰所含めて建屋が二~三棟。写真が荒くてわかりにくいですが、ホーム上には職員の方が見えます。そう、国鉄時代、この信号場には職員さんが詰めておられたんですな~。
で、実はこの日、線路際を歩いて信号場までやってきた中学生が珍しかったのか、職員さんが温かく迎えてくださいまして、なんとわたくし、信号場の詰所で休憩させていただいたんですな。確か、お茶とかも淹れていただいたように記憶してます。凄い話でしょ?
今ならさしずめ見つかった時点でこっぴどく叱られるでしょうし、それ以前にまず見つからないように必死だと思うんですけども、まあ時代ですね~。
わたくし中学生~高校生のころに乗り鉄として全国を旅しましたが、まあいろんなところで今では考えられないような手厚さでお世話になりましたよ。ここ中在家信号場での出来事もそんな思い出のひとつですが、いやあ、国鉄時代の鉄道マンたちは大らかでした。
証拠写真…とか言ったらナニですが(笑)。
さっきの貨物列車が待避線から出て行くところですが、これ信号場のホーム上から撮らせていただいてますね~。
向こうに見えるは名阪国道。今はこんなに丸見えじゃないと思います。
【2022年1月3日追記】 もう一枚写真を発見したので追加します。
そしてこれが、
ボケボケで残念ですが、既存の駅名標とは異なる内容となっております。その内容は、
中在家信号場
NAKAZAIKE
スイッチバック
海抜 251m
三重県鈴鹿郡関町加太
そして下部には、「つげ」「かぶと」と。
これきっと、職員の方の手づくりですよね~。いいなあ…。
【追記終わり】
発掘した写真は以上で終了なんですが、わたくし思い出したのです。
あの日詰所に入れていただいて休憩してる時に、事務机にあった業務用のハンコ類に興味を示したわたくし、どういうやりとりをしたかの記憶は定かではないですが、持ち歩いてたスタンプ帳に押させてもらったんですよ。
つうわけで、
当時のスタンプ帳を引っ張り出しまして…
探すことしばし、
アッターー!
しかも同じページに現住している草津のスタンプがあるとは、運命を感じますな(笑)。
ちょっと今見ると恥ずかしい(笑)。
これ、そこにあったハンコをひととおり手当たり次第に押しただけで、職員の方のお名前と役職なども全然一致してないのです。ただ、この氏名が当時中在家信号場に勤務していた職員の方々のものだったのだとは思うんですが。
とりあえず、こんなハンコまで押させていただけて、どんだけ好き勝手させてもらってんねん、って話でね。もろもろ、さすがにもう時効でしょう(笑)。ほんと、感謝感謝でございます…。
ウィキ先生によると、信号場の設備が撤去されたのは割と最近のことらしく。航空写真で見てみますと、
ホームと詰所基礎だけが残ってますね…。
38年前のここでの出来事、写真を見返して、なんだかウタカタの夢のような。偲ぶきっかけをいただいたchinuさん、ありがとうございました~。