2022年8月28日、中国地方縦断迷走の最終日。この日のネタで記事にしているのは、序盤の川上橋と最終盤の力谷隧道。ってことで今宵ご紹介するのは、中盤に訪ねた、楽しみにしてた物件。
物件への分岐にやってきた。
この時点でかぐわしいかほり(笑)。
ここは事前調査のQ地図様で見つけたのだが、
ヒョロヒョロ市道にある、大正9年製隧道表記!これは惹かれる!
なので、あえてストビューは見ずにやってきた。楽しみ~。エントリーは南側の延畑地区から。
わずか1分少々で…
見えた。
が…退避スペースもなんもないやん。
路面の状態を見てもそうそう車が通ることもなさそうだが、とはいえ「こんな時に限って…」ってのもあるあるなので、
小走りに接近。
こちら側は坑門がほぼなく、地山からコンクリの巻き立てが直で飛び出してるやつ。
そして洞内も…
完全コンクリ巻き立て!
うーむ、完全に改修済み。大正隧道っぽさは失われてるな。狭さはなかなか。
となれば、
狭さを楽しもうじゃないの~。
実は、ノートさんからゴルフに代わって以来この時点まで、狭小隧道を訪ねる機会がなかった。
なので、きっと狭いであろうという点でもここは楽しみにしてたのだが、
まあ極限に狭いなんてことはなく、
ミラーをたたまずとも行けるレベルではあった。
ただ、ゴルフはミラーの先端が尖ってるので、ちょっと気を遣うな~って感じだった。
それ以外には洞内に特筆すべきこともなく…
抜けた。まあ幅員はこんな感じっすな。
で、左側にあった石碑が見切れてるとか、どんだけヘボイ写真なんだと。もっとちゃんと撮れ!
隧道正面にスペースがあったのでとりあえずゴルフを突っ込んで、
改めて隧道北側を。
こっちにはコンクリートポータルがあり、扁額を収めるスペースもあったがギャランドゥ がらんどうだった。
先ほど入ってきた南側をズームで。
まあこれはこれで…なかなかええですな~。
お約束、鉄板の構図。
これは撮っとかんとね。
さて、これだ。
「新道墜道の由来」。漢字間違ってますよ~「隧」ですよ~。
これちょっと面白かったので、以下に書き下してみる。
此の峠は難所にて多年に亘り困難に耐えて居りましたところ昭和の始めに西谷木次嘉一郎氏が熱心にお世話をされ昭和四年奥井谷延畑沖谷西谷四部落共同出資をもって請負者森山喜太郎も西谷の生れにて無●(判読できず)を覚悟にてこれを引き受け昭和五年三月作業に着工致したものであります工事中は幾多の困難も総て神様の加護と助言を頼り施工し昭和六年四月災も無く竣工致しましたことは喜にたえません
其の後市の改修に依り現在に至る
設計 高八尺幅六尺四十間八歩工費九百拾九円六銭
昭和五十二年八月吉日
現住所三刀屋町旭町 森山喜太郎 建之
なんか客観的というよりは主観的な書き方ですな~と思ってたらなんのことはない、碑文において請負者として名前の挙がっている森山喜太郎氏が自ら建立された碑だった。しかも隧道完成から46年も経過した、昭和52年に。
なんでこの時になってなのかは知る由もないが、もしかしたらこの時が「市の改修」のタイミングだったのかも。それに合わせて、改めて由来の石碑でも、って流れだったのかなと想像。
そもそも、「あれ?昭和6年竣工?大正9年じゃないの?」って思ったのだが、地元在住かつ隧道を掘ったご本人がそう記されているのだから間違いないのだろう。
てわけで奥井谷隧道、大正隧道ではありませんでした。大正9年説がどっから来たのか、これまた不明ではある。
なにげに面白かったのが、「幾多の困難も総て神様の加護と助言を頼り」のくだり。加護はともかく「助言」?神様が夢枕に立ってアドバイスを賜ったのだろうか。まあ、くさすわけではなく、なんかお人柄が偲ばれるな~、と、ちょっとほっこりしたって話。
いや~、この線形よ。
悪いね~、好きだね~(笑)。
ありがたく突っ込ませてもらったこのスペース、
退避所を兼ねてるが、北側の奥井谷集落の上水設備保守のためのスペースと思われる。
以下おまけ。
森山喜太郎氏が「難所」と表現されたとおり、奥井谷へと下っていく市道はなかなかのスパルタンロード(笑)で、これも楽しめた。隧道ができる前の峠越え道とは違うのかとは思うけど。
写真を何枚かご紹介。
奥井谷集落内も激狭。最後の写真の先のとこ、フェンスを川側に広げてくれてる優しさ最高(笑)。あれがまっすぐだったら変な汗が出るレベルだった。
以上。