私の防災・その461 「自助」と「共助」と災害弱者の防災 父が残した教訓 | もえもえ育児ほぼ終了日記と障害児家族の防災ブログ

私の防災・その461 「自助」と「共助」と災害弱者の防災 父が残した教訓


自己紹介&ブログ紹介


先天性の遺伝子疾患と重度知的障害ありの娘(22歳)

特撮オタクの旦那(5歳年上)

アニメ&防災オタクの私(アラフィフ)


元々は娘の子育て中の記録として始めたブログですが、現在は主に障害児(者)家族の防災ブログとなってます


父が被災した阪神・淡路大震災から30年の「防災とボランティア週間」も今日が最後です。


この1週間は防災関連の記事を書くと決めていました。


あの大震災を体験した父の思い、残してくれた教訓、それに守られてきた事実をきちんと書き残しておきたかったからです。


ありがたいことに阪神・淡路大震災が発生した1月17日から今日まで通常の倍以上の方が読みにきてくださっているようです。


ブロ友のラキ田さんが紹介してくださったのも強力な後押しとなりました。

https://ameblo.jp/lakitalakiko/entry-12882770358.html

ラキ田さんいつもありがとうございます!


阪神・淡路大震災の時の父の体験談をこのブログで最初に書いたのは2009年の事でした。






もう16年も前に書いていたんですね。

まだもえもえも未就学児でした。


この頃は完全に育児ブログだったのに、何故か今のうちに父の体験談を書いて残しておかなければと思っていたようでかなり詳細で具体的な内容です。


その2年後の3月11日、東日本大震災が発生しました。


父の残してくれた教訓のお陰で自宅も耐震性が高く、備えも充分にしてありました。


そのお陰で東日本大震災の強い揺れ(震度5弱)でも特に被害はなく

その後の計画停電水道水への放射性物質の混入騒ぎの時にも不都合無く過ごし

断水した旦那の実家に水や非常食など必要な物資を届けたり

ちょうど引っ越しを控えて困っていたもえもえの通園友達家族の支援をする

ことも出来ました。


通りがかりの水が手に入らず困っていた赤ちゃん連れのママにペットボトルの水を差し上げたこともありました。


当時の記事です。


東日本大震災から10年のまとめ記事を追加リンクしました。
東日本大震災当時の私の行動はこちらの方が詳細ですね。
そして、2019年の台風15号で実家の両親が猛暑の中で停電した実家から丸2日出られなくなる事態になりました。

その時の記事です。


上に追加した東日本大震災から10年のまとめ記事にも被災の詳細が載ってます。

高齢の両親が停電してエアコンも使えない状況でも体調を崩すこともなく乗り切れたのも備えをしていたお陰です。

この体験が私のブログを防災メインのブログへと舵を切らせました。


それまでも、薄々感じていたことでしたが、自宅が無事で充分に備えをしていれば、被災してもそうそう困ることは無いのに、備えをしていない人が多すぎると言うことを思い知らされたからです。

そして、大規模災害時には助けを求めてもそう簡単に助けは来ないと言う現実も改めて思い知らされたからです。

我が家はもえもえと言う先天性難病&重度知的障害の娘がいるわけですし、実家の両親(現在は母のみ)も高齢者です。

どちらもいわゆる災害時要援護者とか、避難行動要支援者、一般的に災害弱者と呼ばれる存在です。

それでも、誰の手を借りること無くほぼいつも通りの日常生活を過ごせたのは備えをきちんとしていたから。

たとえ健常者であっても防災の知識もなく備えをしていなければ災害発生直後から必要なものを求めて長蛇の列を作ったり、生活を維持するのが難しかったりしています。

私たち家族に言わせれば、台風で断水したくらいでペットボトルの水を数本手に入れるために長蛇の列を作る人達は考えが甘過ぎます。

災害時には必ず助けてもらえる&必要なものはただで配ってもらえると思わせ続けた行政も甘過ぎると思いますが。

私に言わせれば自宅が全壊したり危険で中には入れない人達はいざ知らず「自宅は無事だけど断水したから」だけで水を貰いに来る人にまで配る必要が何処に有るんでしょうか。

国は元々最低3日分
大規模災害が増えた近年は1週間分の備蓄
をするように呼び掛けているはずですよね。

自宅が無事なら少なくとも3日は支援無しで耐えられなければおかしいのです。

店舗や自販機などは大きな被害がなくお金さえあれば買いに行くことも出来る状況でも配布していたりしますよね。

正直配る意味がわかりません。

話が逸れました。

私たち家族にとっての防災は災害弱者としての防災でもあります。

残念ながら阪神・淡路大震災から30年経った現在でも、災害弱者の避難の課題はまだクリアされていません。

阪神・淡路大震災の時の災害弱者の避難の実態がどの様な物だったのかと避難の問題点についてまとめられた資料集がありました。


勿論、全く進歩がないわけではなく、福祉避難所の必要性が認められて各種福祉施設が福祉避難所として指定されるようになったり、避難行動要支援者の個別避難計画作成が進められるようになったりしています。

でも、確実に「その時」役立つ現実的なものとなっているかと問われれば「Yes」と答えることは難しいのが現状です。

能登半島地震でも
福祉避難所となるはずだった施設の建物が被害を受けたり
断水したり
職員も被災して人手不足になったり
して予定通りの開設は出来ていませんでした。


個別支援計画も現状ではまだ全ての人が作成できているわけでもなく、支援する側も被災する可能性を考えると少なくとも現時点では「絵に描いた餅」「机上の空論」です。

だからこそ、可能な限り避難しなくて済む備えと助けてもらいやすい繋がりを多く作る努力、助けて貰うためのハードルを減らす努力をしていなければならないと考えています。

ですから私たち夫婦はもえもえが小さい頃から
  • 様々な場所や人混みに慣れる様にあちこち連れ出す
  • 大勢の人が集まる場所のマナーやルールを教える
  • 居住地校交流を行う
  • 子ども会に参加
  • 地域イベントや避難所開設訓練などの防災訓練に参加
  • 家族以外の人との行動に慣れる為に行動援護を利用
  • 自宅以外の場所でも生活できるようにショートステイを利用
  • 知的障害者の親の会や同じ病気の家族会に参加
するなどして
  • 自宅や学校以外の場所&家族以外の人への抵抗感を無くし
  • 助け合える繋がりを増やし
  • 地域社会に受け入れてもらえる地盤を作る
努力をしてきました。

一般の方も基本的には同じです。

救助を必要とする人、避難所生活をする人は可能な限り減らす努力をしなければなりません。

大きな災害が起きた時に一人でも多く助かるためには一人一人が助かるために出来ることをしなければなりません。

つまり「自助」です。

その場に居る人が助け合うこと、助けにきてもらえる関係性を構築しておくことも必要です。

こちらが「共助」です。

少しでも早く当たり前の生活を取り戻す為には、必要なものを入手するために余計な時間を費やさずに済むような備えをし、ライフラインが途絶えた非日常でも何とか出来る知識を蓄えていなければなりません。

そして、それでも避難所へ行かなくてはならないのであれば
助けて貰うだけの「お客様」ではなく率先して動ける運営者となる覚悟
を持たねばならないと思っています。

避難所運営には多くの課題があります。

一番の問題は避難所運営は「避難者自身が行う」事を殆どの人が認識していないことではないかと思います。

そして、運営のノウハウが確立されず引き継ぐことが出来ていない事だと思います。


大人は「防災の知識は自分で取りに行く」必要があります。

守るべき子どもよりも知識と経験が豊富なはずの大人が、実際には子どもよりも知識も経験も足りず頼りない存在となってしまう可能性もありますね。

人間はありがたいことに自分が体験したことではなくても先人の体験をもとにして学ぶことが出来ます。

私が父の残してくれた教訓をいかして東日本大震災を乗り切った様に

一人でも多くの人が先人の体験や知識を次に起きるであろう大規模災害の被害を減らすためにいかしていって欲しい

と心から願っております。

最後に今年書いた記事の中で出来れば読んでいただきたいと思う、今の私の目線でまとめ直した父の阪神・淡路大震災の体験とその教訓の記事2つを載せておきます。



非常時の備えしてくださいね!

特に災害弱者と呼ばれる方ほど備えは必要です。

私と家族の被災体験はこちら➡

防災記事まとめ・その1はこちら➡

防災記事まとめ・その2はこちら➡

自宅療養・感染対策まとめはこちら➡

 

夏の防災(暑さ対策)まとめはこちら➡

水害対策まとめはこちら

災害弱者の備えと医療的ケア児者の避難実例まとめはこちら➡

 

先天性難病による障害児もえもえのことまとめてます。

もえもえの誕生から通園までのまとめ➡

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