私の防災・その59 東日本大震災から10年 私と家族の被災体験 | もえもえ育児ほぼ終了日記と障害児家族の防災ブログ

私の防災・その59 東日本大震災から10年 私と家族の被災体験

東日本大震災から今日3月11日でちょうど10年となりますね。

あの日、自分達家族には大きな被害はなく済みましたが、今まで体験したことがない大きな揺れ、情報を得ようとしてつけたテレビで流された今まさに被災地を襲う津波の映像、原発事故、その後も繰り返される計画停電や、流通の混乱により物が消えた店頭等々…。
あの当時のことは今でも忘れることは出来ません。
まだ独身で自分のことだけ考えれば良かった頃とは異なり、守るべき存在であるもえもえがいたことで更に防災意識が高くなりました。

私の防災意識の根本となるのは単身赴任中だった私の父が被災した阪神淡路大震災。
早いもので26年が過ぎました。

まだ記憶に新しいのは、すっかり高齢となった両親が丸2日間の停電被害にあった台風15号。
こちらからは1年半過ぎています。

東日本大震災からちょうど10年ということで、改めて私のブログの過去記事から私と家族の被災体験を纏めてみました。

勿論、自宅にも家族にも大きな被害がなかった私たち家族の体験は被災地で体験された多くの方々に比べたら、とてもささやかなものでしょう。
でも、だからそれで良しとして立ち止まってしまうのもやはり違うと思うのです。

各々の経験をもとに私が思うことも今回書き添えています。

下矢印阪神淡路大震災の記事(2009年)

あれから14年〜阪神淡路大震災・父の経験その1〜

1・住宅は命を守る鎧でなければならない
今読み返して思うのは、とにかくまずは死なない、大怪我をしない家作り(選び)と、助かった命を繋ぐ水とトイレの備えの大切さです。

阪神淡路大震災以降、住宅の耐震性能はどんどん進歩しました。
住み替えの際は是非耐震性能の高い住宅を選んでいただきたいと思います。
父は震災直前に築浅のマンションに引っ越したばかりでした。
それまで住んでいた古いマンションは被害が大きい地区だったこともあり、全壊して住める状況ではなくなっていたそうです。
引っ越していなければ父もどうなっていたかわかりません。

熊本地震では学生向けのアパートが倒壊しましたね。
リフォーム済みで見た目はきれいだったけれども、実際は古くて耐震化はされていなかったと知りました。
新年度、新しい場所で新生活を始められるご家族がいらしたら、便利で住みやすい場所や住まいであることも大事ですが、何よりも耐震性能の高い住居を選んでいただきたいと思います。

そして、忘れてはならないのが家具の固定です。
先日の福島沖の地震の唯一の被害者は、ご自宅で家具の下敷きになって亡くなったものとみられています。
背の高い家具は勿論、背が低い家具や家電も固定していなければ危険です。
父の体験で書きましたが、重たいカウンターテーブルが一瞬で一回転しています。
テレビやレンジも下手すると飛びます。
特に無防備に寝ている寝室は絶対に安全な場所にして欲しいと思います。

2・命を繋ぐ水とトイレ
阪神淡路大震災の報道で、今でも忘れることが出来ない光景が、ひび割れた地面から溢れだす水を必死に汲んでいる被災者の姿です。
水道管が破損して断水。
「これしか飲むものがないから仕方がない。家族のために汲んでいる」
そう話していたのです。
飲料可能な湧き水ならいざ知らず、どんな汚れや雑菌が混じっているかもしれない水を飲むしかない状況…。
今でも思い出すと涙が出そうになります。
父も「とにかく水だよ。食べなくても健康な人間はそう簡単には死なないが、水が飲めなければあっという間に倒れる」と繰り返し語ってくれました。
我が家では水の保存と、万が一同じように安全性が不明な水を飲むしかない状況になった場合に備えて携帯できる簡易濾過器を準備しています。

また、父が水と共に絶対必要な備えだと力説するのがトイレです。
食べたり飲んだりはある程度の我慢が出来ますが、トイレ(排泄)は我慢できる限界が早いです。
そして、ライフラインが止まった状況で不特定多数の人が使う避難所のトイレはそれはそれは悲惨な状況になるそうです。

自宅のトイレが使えなければ避難所のトイレを借りれば良いと考えている方がいらっしゃるかも知れませんが、トイレに行きたくなったらそれから避難所まで移動するのでしょうか?
いざトイレに行こうとした時に雨や雪が降っているかもしれませんし、停電で真っ暗な夜中に行きたくなるかもしれません。
それでも避難所のトイレに向かいますか?
また、辿り着いた避難所のトイレに長蛇の列ができていたら?
やっと入れたトイレの中に排泄物が積み上がった状態になっていたら?

これらは実際に父が目の当たりにした現実です。

勿論、阪神淡路大震災や東日本大震災、その他大きな災害が起きる度に避難所のトイレの見直しはされてきていますが、やはり安心して排泄出来る環境は可能な限り自分達で確保しておくべきだろうと思います。
特に今は新型コロナ感染症の対策としても、少しでもトイレの共用は避けるようにしていただきたいと思います。

下矢印東日本大震災(2011年)当時の記事


ここからは当時の記事には書いていないエピソードが含まれています。

3・以前大丈夫だったは通用しない
私の両親は東北出身で、東日本大震災当時は東北在住の親戚達となかなか連絡がつかず心配しました。

幸い全員無事でしたが、大なり小なり自宅に被害が出ました。
特に被害が大きかったのは叔父夫婦(母の弟)の自宅で、津波で全壊しました。

ここは大きな津波被害が出た昭和の三陸沖地震でも津波が来なかった場所で、誰もがまさかここまで波が来るとは思わなかった場所です。
当時、大叔母(私の祖母の妹)が叔父夫婦の離れで同居していました。
もうかなりの高齢で自力避難出来ませんでしたが、自宅(離れ)に津波の影響は無いと思っていた叔父夫婦は、地震直後に自宅と大叔母の無事を確認した後、各々自宅を離れて行動開始しました。

しかし、津波はやって来ました。

叔父夫婦の自宅(母屋)は全壊し、離れにも波が迫ります。
大叔母が助かったのは敷地内に高低差があり、離れが一段高い場所に作られていた為でした。
後ほんの少しでも高い津波が来たら大叔母は無事では済まなかったと思います。
生死を分けるのは本当に小さな違いなのだと痛感します。
東日本大震災から数年後、大叔母は穏やかに自宅で最期を迎えることが出来ました。
叔父夫婦は離れのあった場所に自宅を建てて今でもそこに住んでいます。

今まで大丈夫だったからと油断せず、もしも次に大きな地震が来たら迷わず避難すると決めていると話してくれました。

4・備蓄は家族以外も助けられる
首都圏の我が家は地震に強いハウスメーカー製だったことや家具の固定などの対策をしていたことで震災による被害は有りませんでした。
ライフラインも震災直後安全装置が働いて一時的にガスが止まりましたが、それも手順通りに問題なく復旧させることができて、特に問題なく生活できていました。

しかし、福島第一原発事故が起き、計画停電が行われるようになり、更に、利根川水系の水道水から放射能が検出されて、乳児のミルクには水道水を使用しないように呼び掛けられました。
もえもえは既に乳児ではありませんでしたが、我が家は水の備蓄をしていましたので念のためもえもえの食事や飲み物には備蓄していた水を使うように変更。

この時、ただでさえ被災地に送るためや自宅の備えとして水を購入する人たちが急増していたところにこの報道でしたから、一気に店頭から水が消えてしまいました。

我が家には備蓄が充分にあるので買い足しはしなかったのですが、日常の買い物に出かけた時、水が買えなくて困っている赤ちゃん連れのお母さんに出会いました。
店を足早に出ながら、ご家族に電話で「○○(店名)にも水が無かった。これから△△(ちょっと離れた別店舗)に向かう」と話しているのを耳にして、思わずたまたま持参していた未開封の500mlペットボトル水を差し上げました。
ちょっと驚いた顔をしたお母さんは「良いんですか?ありがとうございます。本当に助かります!」と半泣きになりながら受け取ってくれました。
小さな赤ちゃんを守るため、必死になっているお母さん。
たった一本の水では全然足りないことはわかっていましたが、せめてもの気持ちでした。

私はこんな大変な思いをするお母さんを減らしたいし、本音で言えばゼロにしたい。
大事なお子さんを守るために、しっかりと備蓄してほしいと心から願っています。

我が家の備蓄は他にも断水した旦那の実家や、引っ越し間近で食料の在庫を減らしてしまっていて困っていたもえもえのお友だちの家にも分けることが出来ました。
災害備蓄はまずは自分達家族のためにするものではありますが、自分達に必要なければ、本当に困っていて必要としている方々に譲ることも出来ます。

多くのご家庭に必要十分な備蓄があれば、災害が起きた後に慌てて買い物に行く必要もなく、店頭から必要なものが一気に無くなってしまうことを防ぐことが出来ると思います。
直接備蓄を譲らなくても、被災されて本当に必要としている方々に必要なものをまわすことが出来るのです。

自分達のため、そして、何処かで困っている方々のため、備蓄をしていただきたいと思います。

5・「共助」「公助」はオーダーメードではない
もえもえは咀嚼に課題があり、普通食(固形物)が食べられません。
今はピーナッツだけですがアレルギーも有ります。
災害発生直後、お住まいの自治体から配布される災害備蓄食がどんなものなのか皆さんはご存じでしょうか。
家族全員どんなものでも美味しく食べられるのならば良いのですが、もえもえの様に障害があったり、食事管理の必要な病気だったり、アレルギーがあったり、高齢で介護食でなければ食べられない方がいる場合は配布される食べ物を食べられない可能性があります。

阪神淡路大震災も東日本大震災も寒い時期でした。
冷たくてカチカチのお握りが一日一個だけ配られたなんてこともあったようです。
これは残念ながら、もえもえには食べられません。
水と温める手段があれば雑炊にすることも出来るのですが、そのままの状態では…。
また、ご厚意で配られたお握りの具材に何が使われているのかわからず、重度のアレルギーがある方は食べることを諦めたという話も聞きます。
ですから私は自宅での備蓄は勿論、もえもえを連れて歩くときには、必ずもえもえが食べられる非常食を少しですが持ち歩くようにしています。
食べ物を潰すなど加工するもえもえ専用の食事セットも必携です。

自治体の備えは基本的に最低限のものです。
特に災害発生直後は一人一人の状況を確認してそれに応じて食事の手配をする余裕はありません。
オーダーメードではないのです。
やはり自分達家族のことを良く知り、オーダーメードの備蓄が出来るのは自分達家族だけです。
誰もが必要だと知っているものは比較的早く届くと思いますが、少数の人が必要なちょっと特殊な物はなかなか届かないと覚悟した方が良いです。
是非大事なご家族の必要不可欠な備えを見直してください。

幸い、自治体の備えの意識も健康な人をベースに考えるのではなく、様々な事情を抱えた人も含めて出来るだけ多くの人の為に備えようと変わってきています。
是非、お住まいの自治体の備えを確認してみてください。

私は以前、私達家族が住んでいる自治体の総合防災訓練の時に、どんな食料を備蓄しているのか尋ねたことが有ります。
予算と在庫の関係で全てがアレルギー対応の食品ではないけれども、期限が近づいた物からアレルギー対応の食品に順次入れ替えているそうです。
介護食とまではいきませんが、比較的食べやすいであろうお粥等も増やしているそうです。
また、炊き出しのカレーはアレルゲンフリーのカレールーを使用することになっているそうです。
まだ完全に入れ替わったわけではないですが、出来るだけ多くの人が安心して食べられるものを備えるのが当たり前になってきたことがとても嬉しいです。
この自治体は頑張っていると思いますが、皆さんのお住まいの自治体は大丈夫ですか?
是非一度確認されることをお勧めします。

6・職場、出先で被災したら
阪神淡路大震災の起きた年に私は社会人となりました。
まだ阪神淡路大震災で被災したときの記憶が生々しい父から「職場にいる時や通勤途中で被災する可能性があることを忘れるな」と忠告されました。
公共交通機関が使えなくなり、瓦礫だらけの道を歩いて帰宅することになるかもしれない。
その覚悟はしておけと。

そこで、職場への通勤はヒールもあるパンプス履いていましたが、出来るだけ長時間履いて歩いても疲れにくいものを選び、職場のロッカーにはスニーカーも入れておきました。
通勤バッグには飲み物と飴やチョコなどのお菓子、自宅までの道がわかる小さな地図(スマホなど無い時代です)を常に入れて持ち歩いていました。
幸い私が退職するまで災害にあることはなく、備えは備えで終わりました。

ですが、東日本大震災の時、もえもえと私は自宅にいましたが、旦那は都内の会社にいました。
電話は通じなかったものの、メールは多少の遅延はあっても使えたので、お互いの無事は割合早く確認できました。
もえもえと私は安全確保できているので、会社が安全なら無理に帰宅することはないと伝えたのですが、結局旦那はその晩歩いて帰宅したのです。
旦那は都内を歩き回る仕事柄、脚力に自信があり、履いている靴も歩きやすさ重視のものだったこと、道もわかっているし、ポケット地図も持っている、鞄も2wayでリュックになるタイプ、飲み水も持っていました。
更に、自宅までの中間地点辺りに住んでいる同僚も歩いて帰ることに決めたので、もしも自宅まで歩くのが無理なら同僚宅に寄らせてもらえる等、条件が揃っていたので帰宅することを決断したそうです。
あの日旦那は4時間近くかけて歩いて帰宅しました。
お陰で翌日から旦那の実家の助けにいったり即座に動けたので、助かったことは事実です。
でも、条件が揃っていないのに無理して歩いて帰宅しようとしていたら何が起きたかわかりません。

歩いて帰宅する覚悟と備えは必要だと思いますが、無理して帰宅しようとせず、先ずは身の安全を確保し、最善の判断が下せるようにしていただきたいと思います。

もえもえと同じように障害があるお子さんの持病の通院で都内の大学病院にいるときに被災された方もいます。
その方はお子さんの持病の薬がもう無くなる寸前だったこともあり、病院内の薬局が機能していることを確認して、いつもより多めに、そして処方箋を出してもらうのではなく院内薬局で出してもらうようにお願いしたそうです。
そして、大きな地震でパニックを起こしたお子さんを連れて無理に帰宅するよりそのまま病院内に留まることを選択しました。
売店で飲み物と軽食を確保できたこともその判断を支えたそうです。
あの判断は正しかったと今でも思うと話してくれました。

災害が起きた時、自分や家族が何時何処に居るかわかりません。
その時に命を守るために必要な物はあるのか、どう判断すべきか考える基準を持っているのか、これを常に意識することが大事ではないでしょうか。

下矢印台風15号「令和元年房総半島台風」


7・助けて貰うための準備を
もえもえは先天的な遺伝子の難病で、重度知的障害もあります。
災害時に自分自身を守ることが難しいいわゆる「災害弱者」です。
東日本大震災の前から災害時要支援者リストに登録していました。
基本的にもえもえが一人だけでいることはありませんが、万が一そばにいて助けるはずの私達に何かあった場合、少しでも助けが得られるならと登録したのです。

ですが、東日本大震災の時に支援者である自治会の方が来たのは翌日以降で、しかもいらしたのは下手をするとご自身が助けを必要とされる日も近いだろうご高齢の役員さん。
「私一人で安否確認に回ってるんでね~、結構大変だよ~、こちらのお宅は大丈夫そうだね~良かったね~」と言われておしまいです。
安否確認に来てくれただけありがたいとは思いますが、正直あまり助けは期待できないなと思ったのも事実です。

また、一昨年の台風で高齢の両親が暮らす実家が台風被害にあった時、停電によりガレージの電動シャッターと電気ロック式の門扉が開けられなくなり、自宅の敷地外への避難が出来なくなりました。
敷地から出ることさえ出来れば両親の足でも歩ける距離にある包括支援センター(停電、断水なしで一時避難所となった)に避難できるはずだったのですが。

猛暑の中、冷房が使えない両親の体調が不安でしたが台風通過した当日は電車や高速も使えず、翌日はもえもえの受診付き添いのため実家へ向かうことも出来ません。
被災二日目の朝には唯一の連絡手段である母の携帯も充電切れで状況確認もできなくなり、心配で居ても立ってもいられなくなりました。
両親が避難するはずだった包括支援センターへ電話したり、警察へも状況を説明して救助要請をしましたが、敷地から出られないだけでその時点では命に別状無いと判断され、他に優先するべき人たちがいるので余裕ができたら様子を見に行くと告げられました。

結局、都内在住の従姉妹が私の代わりに駆けつけてくれてシャッターの開け方を確認し、一緒に包括支援センターに一時避難してその場で携帯も充電出来ました。

両親がしっかり備蓄していたことで暑さ以外は問題なく過ごせたので従姉妹の支援が間に合いました。
携帯の乾電池式充電器も渡してあったのですが普段使わないため壊れてしまっていたそうで、それだけは誤算でした。

警察の方が安否確認に来たのは従姉妹が着いただいぶ後だったそうです。

両親は基本的な備えが出来ていましたし、私を通して助けを求めることも出来ました。
しかし、もしも備えがなく、助けを呼ぶ手段も無かったら、一体いつ助けが来てくれたのでしょうか。
助けを求めていてさえ、すぐには助けが来なかったのです。

災害時に助けを必要とすることが予想される方は、助けが来るまで持ちこたえられるように備えをしてください。
助けを呼ぶ手段を可能な限り確保してください。
助けてくれる相手を出来るだけ多く見つけておいてください。

災害が起きても死なない、大怪我をしない居場所作りと、被災後に生き延びる為の備蓄は他人任せにせずに災害が起きる前にしておいてください。
助けてもらう準備ができている人を助けるのは比較的容易いですが、全ておんぶにだっこで助けてもらおうと考えている人を助けるのは助け手にとって負担が大き過ぎます。

どうか「災害弱者」こそ自分に出来る精一杯の災害対策をお願いします。

一人で逃げるのが難しくても、はじめから無理だと諦めず、玄関先まで自力で出ることが出来たら、避難する人が気付いて一緒に逃げてくれるかも知れません。
直接助ける余裕がなくても、助けてくれそうな人を見つけて(探して)くれるかもしれません。

「助けてもらってまで逃げたくない。私はここで死んでも良い」と思わず「自分が死んだら悲しむ人のため、死んだ後の始末をする人の負担を無くすためにギリギリまで頑張ろう」と考えて欲しいのです。
自分を大事に思う人に「助けられなかった」と
悔やむ気持ちを抱かせないでください。
瓦礫の中、ご遺体の捜索をしなければならない人々の心身の負担を減らしてください。
大変な状況の中で死の覚悟を決めることと、努力もせずに諦めるのは全くの別物です。
あなたが助かることで救われる人たちがいるのです。

長くなりました。
最後まで読んで下さった方に感謝します。
何か一つでも震災や災害について考えていただけたら幸いです。