あれから14年〜阪神淡路大震災・父の経験その1〜
14年前の1月17日阪神淡路大震災が起きました。
私の父は、当時単身赴任で大阪の会社に勤めていて、芦屋のマンションで一人暮らしをしていました。
つまり、被災者の一人です。
14年も前の話ですし、父から聞いた話を思い出しながら書いているので、多少時系列や事実に間違いがあるかもしれませんが、記録として出来る限り残しておきたいと思います。
当日の朝、父は出張に出かける予定のために早起きをして、朝食のために正月の残りのお餅を焼いたところであの地震が起きました。
下から突き上げるような衝撃が襲い、父は咄嗟に目の前のカウンターテーブルに掴まって、激しい揺れに耐えたそうです。
あまりに強い衝撃に、まさか地震だとは思わず、下の階で何かが爆発したのだと思ったそうです。
揺れが収まって、辺りを見回した父の目に写ったのは、襖を突き破って隣の部屋に飛び出したベッド。
廊下に倒れ出した給湯器。
一メートルも離れた位置に落ちているテレビなど、ぐちゃぐちゃになった室内でした。
ふと気付けば、自分が咄嗟に掴まったカウンターテーブルも、もともと自分に向いていた側ではなく、反対側(引き出しの位置などで判明)にしがみついていたそうです。
衝撃を受けた一瞬で、重たいカウンターテーブルが180度回っていたんです。
幸いにも、新しいマンションだったため、建物そのものにはダメージもなく、父も無傷。
何が起きたのかと外の様子を見た父は、そのとき初めて広範囲な被害の様子を目にして地震が起きたのだと把握したそうです。
周辺の古い建物は軒並み潰れ、瓦礫の山。
当時職場の最高責任者だった父の頭に浮かんだのは従業員の安否。
そして私たち家族に自分の無事をしらせることでした。
電話機に手をやりましたが、電話は繋がりません。
その時に父は、コイン式の公衆電話は非常時でも使えることを思いだし、ありったけの硬貨を持って近くの公園の公衆電話に走りました。
同じように電話に走った人々で長蛇の列ができていましたが、それでも皆理性的にお互い譲り合い、できるだけ手短に最低限の連絡だけしては次の人に変わっていったそうです。
父も、まずは職場の責任者として職場に第一報を入れてまた並び直して家族への無事の連絡を入れました。
当日の私達留守家族の様子はまた改めて記事にします。
正直言えば、そのときのお気楽な私の実態がさらされて恥ずかしいのですが(^^;
話がそれました。
皆さんもテレビで何度も目にしたと思いますが、高速道路の高架が倒壊した現場。
あの日父はそこを走って出張に出かけるはずでした。
地震が起きた時間がもう少し遅ければ、父もあの倒壊に巻き込まれていたかも知れないのです。
それを思うと、今でもあの倒壊した高速道路の映像を見るとゾッとさせられます。
その当日は、とにかく何度も公衆電話に並び、会社に出社できた社員に指示を出して、出社できない従業員の安否を確認させたそうです。
その時の父が出した指示は、とにかく社員の中でバイクを持っている人を集めて、その人たちを使って手分けをして電話の繋がらない従業員の自宅まで走らせて直接安否を確認するということでした。
被災地の道路状況は最悪で、とても車で走り回れる状態ではなく、小回りが利くバイクが一番と判断してのことでした。
第一段階ではまず従業員とその家族の安否確認及び必要に応じて救助活動、その後は救援物資の配達と、このバイク部隊は大変な活躍ぶりだったそうです。
バイクを所持している人は大抵が体力のある若い人だったことも効を奏しました。
父自身は当日は電話と飲み物の確保だけで一日が終わってしまったそうです。
飲み物を買いにコンビニにいった父は、そこでも皆が譲り合い、大量買い占めなどするものもなく、手計算で販売している店員にも協力して必要最低限のものだけ購入して帰宅する姿を見たそうです。
人は追い込まれたときにその真の姿が現れると言いますが、あの大震災で浮き彫りになった真の姿は秩序正しく理性的かつ思いやりに溢れる人々の姿だったそうです。
父のマンションは無事だったとはいえ、断水と停電、ガスの停止で、食事をとるのも、暖を取るのもままなりません。
出来るだけ多くの服を着込み、食料はそのままでも食べられる干し芋があったので、それをかじっていたと言います。
そして、一番困ったのが、断水でトイレが使えないこと。
それでも父は一人暮らしですから、一人分の排泄物だけならまだ何とか処理のしようもありました。
しかし後に訪れた避難所のトイレは数が足りずに悲惨な状況で、避難所の周辺は耐えきれずに用を足した人たちの排泄物が垂れ流されていたそうです。
この時の経験から、父は「絶対に水とトイレだけは確保しておけ」と口癖のように言っています。
水は飲み水として、また怪我をしたときに傷口を洗ったり、体を清潔に保つのに欠かせないものです。
また、食べることは我慢できても、トイレだけは人間我慢が出来ない。
無理に我慢すれば病気になる。
だから、非常用のトイレだけは用意するようにと。
実家でも我が家でも、組立式の簡易トイレとそれに被せて使う処理用の袋を常備してあります。
それから、もえもえが生まれてからは、普通食が食べられないもえもえの為の食料と薬も絶対に備えておくようにと。
大人は水さえあれば、数日食べなくてもなんとかなるが、もえもえの様に体力がない子やお年寄り、持病があって特別な食事や薬を必要とする人は、通常の場合よりも長く自力で乗り越えられるように備えておかなければならないと。
最低でも三日間、もえもえの分は一週間は持ちこたえられるように、必ず用意した方が良いとアドバイスされました。
今では、我が家の玄関収納には三人分の非常持ち出し袋が常備されています。
カーポートの収納には、非常用の水の買い置きも。
そして、毎年二回、この阪神淡路大震災が起きた日と9月の防災の日のあたりで必ず中身をチェックして必要に応じて入れ換えを行っています。
皆さんも是非備えをしておいてください。
明日の記事でも書きますが、やはり自分と家族を守るのはまずは自分自身なんです。
明日は留守宅の私達家族のこと、そして、父の職場の従業員家族に起きた出来事を書きます。
もう少しお付き合い下さいませ。
私の父は、当時単身赴任で大阪の会社に勤めていて、芦屋のマンションで一人暮らしをしていました。
つまり、被災者の一人です。
14年も前の話ですし、父から聞いた話を思い出しながら書いているので、多少時系列や事実に間違いがあるかもしれませんが、記録として出来る限り残しておきたいと思います。
当日の朝、父は出張に出かける予定のために早起きをして、朝食のために正月の残りのお餅を焼いたところであの地震が起きました。
下から突き上げるような衝撃が襲い、父は咄嗟に目の前のカウンターテーブルに掴まって、激しい揺れに耐えたそうです。
あまりに強い衝撃に、まさか地震だとは思わず、下の階で何かが爆発したのだと思ったそうです。
揺れが収まって、辺りを見回した父の目に写ったのは、襖を突き破って隣の部屋に飛び出したベッド。
廊下に倒れ出した給湯器。
一メートルも離れた位置に落ちているテレビなど、ぐちゃぐちゃになった室内でした。
ふと気付けば、自分が咄嗟に掴まったカウンターテーブルも、もともと自分に向いていた側ではなく、反対側(引き出しの位置などで判明)にしがみついていたそうです。
衝撃を受けた一瞬で、重たいカウンターテーブルが180度回っていたんです。
幸いにも、新しいマンションだったため、建物そのものにはダメージもなく、父も無傷。
何が起きたのかと外の様子を見た父は、そのとき初めて広範囲な被害の様子を目にして地震が起きたのだと把握したそうです。
周辺の古い建物は軒並み潰れ、瓦礫の山。
当時職場の最高責任者だった父の頭に浮かんだのは従業員の安否。
そして私たち家族に自分の無事をしらせることでした。
電話機に手をやりましたが、電話は繋がりません。
その時に父は、コイン式の公衆電話は非常時でも使えることを思いだし、ありったけの硬貨を持って近くの公園の公衆電話に走りました。
同じように電話に走った人々で長蛇の列ができていましたが、それでも皆理性的にお互い譲り合い、できるだけ手短に最低限の連絡だけしては次の人に変わっていったそうです。
父も、まずは職場の責任者として職場に第一報を入れてまた並び直して家族への無事の連絡を入れました。
当日の私達留守家族の様子はまた改めて記事にします。
正直言えば、そのときのお気楽な私の実態がさらされて恥ずかしいのですが(^^;
話がそれました。
皆さんもテレビで何度も目にしたと思いますが、高速道路の高架が倒壊した現場。
あの日父はそこを走って出張に出かけるはずでした。
地震が起きた時間がもう少し遅ければ、父もあの倒壊に巻き込まれていたかも知れないのです。
それを思うと、今でもあの倒壊した高速道路の映像を見るとゾッとさせられます。
その当日は、とにかく何度も公衆電話に並び、会社に出社できた社員に指示を出して、出社できない従業員の安否を確認させたそうです。
その時の父が出した指示は、とにかく社員の中でバイクを持っている人を集めて、その人たちを使って手分けをして電話の繋がらない従業員の自宅まで走らせて直接安否を確認するということでした。
被災地の道路状況は最悪で、とても車で走り回れる状態ではなく、小回りが利くバイクが一番と判断してのことでした。
第一段階ではまず従業員とその家族の安否確認及び必要に応じて救助活動、その後は救援物資の配達と、このバイク部隊は大変な活躍ぶりだったそうです。
バイクを所持している人は大抵が体力のある若い人だったことも効を奏しました。
父自身は当日は電話と飲み物の確保だけで一日が終わってしまったそうです。
飲み物を買いにコンビニにいった父は、そこでも皆が譲り合い、大量買い占めなどするものもなく、手計算で販売している店員にも協力して必要最低限のものだけ購入して帰宅する姿を見たそうです。
人は追い込まれたときにその真の姿が現れると言いますが、あの大震災で浮き彫りになった真の姿は秩序正しく理性的かつ思いやりに溢れる人々の姿だったそうです。
父のマンションは無事だったとはいえ、断水と停電、ガスの停止で、食事をとるのも、暖を取るのもままなりません。
出来るだけ多くの服を着込み、食料はそのままでも食べられる干し芋があったので、それをかじっていたと言います。
そして、一番困ったのが、断水でトイレが使えないこと。
それでも父は一人暮らしですから、一人分の排泄物だけならまだ何とか処理のしようもありました。
しかし後に訪れた避難所のトイレは数が足りずに悲惨な状況で、避難所の周辺は耐えきれずに用を足した人たちの排泄物が垂れ流されていたそうです。
この時の経験から、父は「絶対に水とトイレだけは確保しておけ」と口癖のように言っています。
水は飲み水として、また怪我をしたときに傷口を洗ったり、体を清潔に保つのに欠かせないものです。
また、食べることは我慢できても、トイレだけは人間我慢が出来ない。
無理に我慢すれば病気になる。
だから、非常用のトイレだけは用意するようにと。
実家でも我が家でも、組立式の簡易トイレとそれに被せて使う処理用の袋を常備してあります。
それから、もえもえが生まれてからは、普通食が食べられないもえもえの為の食料と薬も絶対に備えておくようにと。
大人は水さえあれば、数日食べなくてもなんとかなるが、もえもえの様に体力がない子やお年寄り、持病があって特別な食事や薬を必要とする人は、通常の場合よりも長く自力で乗り越えられるように備えておかなければならないと。
最低でも三日間、もえもえの分は一週間は持ちこたえられるように、必ず用意した方が良いとアドバイスされました。
今では、我が家の玄関収納には三人分の非常持ち出し袋が常備されています。
カーポートの収納には、非常用の水の買い置きも。
そして、毎年二回、この阪神淡路大震災が起きた日と9月の防災の日のあたりで必ず中身をチェックして必要に応じて入れ換えを行っています。
皆さんも是非備えをしておいてください。
明日の記事でも書きますが、やはり自分と家族を守るのはまずは自分自身なんです。
明日は留守宅の私達家族のこと、そして、父の職場の従業員家族に起きた出来事を書きます。
もう少しお付き合い下さいませ。