あれから14年〜阪神淡路大震災・その日の私と母〜 | もえもえ育児ほぼ終了日記と障害児家族の防災ブログ

あれから14年〜阪神淡路大震災・その日の私と母〜

まず最初に昨日の記事の補足を。

障害をお持ちの息子さんが生き埋めになった方の話ですが、息子さんは、例え無傷でも自力での脱出は絶対に出来ない、外からの呼び掛けもどれだけ理解して反応できるかわからない、そういう状態の方でした。

だから、救助隊が最初に現れた時点で救助をしなかったことは、決して間違いではないでしょうけれど、息子さんのことをよく知るご両親にしてみれば、反応がない=助かる可能性が低いとは言えず、助け出されるまでの間、どれ程の苦しい思いをされたことでしょう。

息子さんのことを把握していて、その生存の可能性を最後まで信じ続けたご両親。

このお二人の強い意思なくして息子さんの生還はあり得なかった。

単に生き埋めになったけれど助かったという話ではないこと、この話を書く為にあえて障害をお持ちであると言うことを書いたのに、すっかり大事な部分が抜けてしまっていました。

申し訳ありません。

さて、話をその当日の私達留守家族のことに戻します。

実はその日は私の卒論提出日でした。(あ、年がばれる…(^^;まぁ、いいや)

その日までに思うように進んでいなかったため、当然徹夜で論文を仕上げていました。

ところが、当日の明け方に突然使っていたpcが壊れて、うんともすんとも言わなくなりました。

あの手この手で何とか回復を試みますが、画面には意味不明な記号が並ぶばかり。

当然、徹夜で打っていた卒論は全部パァ(T▽T)

小まめにフロッピーに保存しておけばよいものを、保存の手間を惜しんだことが仇となり、一番メインの章の文章のほとんどが消えてしまいました。

こうなってはもう仕方がありません。

とにかく、その日に形だけでも仕上げて提出しなければ、卒業できなくなるわけですから、急いで朝食をとり、大学に向かうことにしました。

朝食中も頭の中は卒論のことで一杯で、テレビで流れた地震のニュースも右から左。

母が心配そうに
「関西で大きな地震があったらしいけど、お父さんは無事かしら…。」
と言うのにも、勝手に
「大きいって言ったって、どうせ震度3か4位でしょ?あっちは地震が起きないことで有名だし。それより、卒論を何としても間に合わせなきゃいけないから、もう大学にいくから」
と言い捨てて、家を飛び出しました。

そして、その後学生用のpc室に籠ってなんとか時間ギリギリに形だけは仕上げて提出。

その間、情報からは全く遮断されていたため、それほどの大震災が起きていたことも、父がその被災者になっていることも全く知らずにいました。

暢気なものです(^^;

卒論の提出が終わってからは、同じ学部の友人とお互いに卒論提出が間に合ったことを祝ってお茶を楽しんだりしていたのですから。

一方の母は、私が家を出てからというもの、テレビで伝えられる刻々と酷くなる被害状況に不安をつのらせていました。

特に、あの高速道路の倒壊の映像を見たときに、父が出張に出る予定だと知っていた母は、本当に気が気ではなくなったそうです。

父が関西で暮らしていることを知る親戚や知人たちからも父の安否を問う電話が次々に入ります。

幸い、父は無事でしたし、機転を利かせて公衆電話を利用して午前のうちに母に連絡を入れたので、余震などの不安はあるにせよ、とりあえず一安心できました。

そうすると、次の不安はバカ娘の卒論が間に合ったかどうかです。

昼過ぎまでに提出しなければと言って飛び出して行ったのに、いつまでたっても電話一本寄越さない。

心配の余り、母は研究室に電話(父のことを知らせる必要もあって)を入れて、教授に(!)尋ねたものの、私は学部の学生共通で利用できる、所属研究室からは離れたpc室に籠っていたために連絡はつかず、心配は募るばかり。

しかもその日は教授と私は顔を会わせておらず「もえままさんには今日は会っていません」と言われて尚更不安に。

能天気な私が母にようやく連絡を入れたのは、もう夕方遅くなってから。

「今から帰るね~♪」
「…随分遅いけど、どうしたの、卒論間に合ったの?」
「間に合ったよ~♪そのあとお友達とお茶してて遅くなっちゃった。」
「……………あぁ、そう(-_-#)今から帰るのね?」
「?うん(何か凄く怒ってる?)」

家に帰った私はそこで初めて今朝方の地震はとてつもない規模の震災だったこと、父も無事とはいえ、その被害を受けていたことを知らされました。

もう、その日一日の母の気持ちを思うと、平謝りに謝ることしか出来ませんでした。

父や私からの連絡を逃さず受けるためにと電話のそばを離れることも出来ず、他の親戚や知人からの問い合わせにも対応せねばならず、どれ程神経をすり減らしたことでしょう。

父が無事だったから、まだこれで済みましたが、もしも父に何かあったら…。

もう本当に反省しきりでした。

あの頃の私は本当にまだまだ両親の庇護に甘えていたと痛感します。

自分の目の前の問題しか考えられない。
今思い返しても顔から火が出そうです。

それにしても、今考えても不思議なのは、私が使っていた自宅のpcがあの日突然壊れたこと。

壊れた瞬間に時間を確認したわけではないので、私の思い違いかもしれませんが、ちょうど震災が発生した頃だったと思われます。

そのpcは、それまで全く問題なく使用できていましたし、特に無茶な使い方もしていません。(と言うか、無茶出来る知識も技術もない(^^;)

何の前触れもない突然のクラッシュでした。

何者かが、震災が起きたことをいち早く知らせようとしたのでしょうか?

…だとしたら、余り効果的な知らせ方ではなかったようですが(^^;

大震災にどたばた卒論提出劇、その上こんな不思議なことも起きていたので、私にとって1月17日という日は忘れることの出来ない日付となっています。

毎年この日は振り返り、自分自身に問い直すのです。

命というもの、家族の絆、大切なものを守るために必要なこと。

皆さんももう一度、考えてみてください。
失ってからでは遅いのです。