あれから14年〜阪神淡路大震災・父の経験その2〜 | もえもえ育児ほぼ終了日記と障害児家族の防災ブログ

あれから14年〜阪神淡路大震災・父の経験その2〜

阪神淡路大震災がもたらした被害は本当に大きなものでした。

父の職場の方やご家族にも犠牲となった方がいらっしゃいます。

あの地域は長いこと地震が起きていなかったために、古い住宅が耐震補強もされずにそのまま住み続けられていて、震災の強い衝撃に耐えきれずに崩壊してしまったケースがたくさんあります。

特に一階部分が押し潰されてしまった為に、足腰が弱って一階部分で寝起きしていた高齢なご家族が下敷きになってしまうパターンが結構あったそうです。

地震が起きたときの殆どの皆さんの行動についてですが、父によると、おおよそこの様なパターンで動いていたそうです。

まずは自分自身の安全の確保。これはどこにいても変わりません。

そして、自宅にいて被災した場合。

家族の安否確認と救助及び安全確保。

隣近所の知り合いの安否確認と救助及び安全確保。

離れた地域の家族や親戚に連絡。

職場に連絡、もしくは駆けつける。

職場にいた場合。

職場仲間の安否確認と救助及び安全確保。

自宅に戻って家族の安否確認と救助及び安全確保。

以下同じ。

公的な機関に勤める方や消防、救急、病院関係者などは、その時に職場にいた方は自分自身の、職場を離れていた方も自分と家族の安全を確保したら即座に職場に向かって、被災者救助や治療にあたったそうですが、やはり、どんな方でも最優先は自分と家族。

他の方に救助の手を差し出せるのは、その次なんです。

消防や警察、救助隊による救助活動が本格的に始まるのは、最初の混乱が治まってから。

真っ先に頼りになるのは家族と隣近所です。

救助が本格化しても、確実に素早く救助されるとは限りません。

父の職場の従業員に障害を持つ息子さんがおいでの方がいらっしゃいました。

ご両親は無事でしたが、息子さんが生き埋めとなり、必死に助け出そうとしたそうですが、重機や専門の道具もない状況ではどうしようもなかったそうです。

救助隊がはじめて近くに来たときに、必死に助けてほしいと訴えましたが、救助隊が外から声をかけても全く反応がなかったために、救助が後回しにされてしまったそうです。

救助隊が下した判断はやむを得ないものだとは思います。

全ての人を助けられる状況ではない以上、生存が確認できる人を優先して救助せざるを得ないのです。

ですが、もちろんご両親が諦められるはずもなく、避難所にいくこともせず、潰れた家のそばに毛布を敷いてその場に残り、ひたすら息子さんの無事を祈り続けたそうです。

そして、数日後、ようやく救助隊が息子さんの捜索と救助を開始。

奇跡的に、息子さんは助かりました。

布団にすっぽりくるまっていたお陰で、大きな怪我がなく、潰れた家の梁なども、たまたま上手く息子さんの体の回りに空間が出来るように落下して、息子さんは押し潰されることなく助かったのです。

諦めなかったご両親の祈りが通じた奇跡の出来事です。

ですが、もちろん残念ながら命を落とされた方もいらっしゃいます。

犠牲となった方々のご冥福を心よりお祈りいたします。

父の職場は大阪市内にあり、比較的被害が少なく、ライフラインの復活も、様々な救援物資の入手も早かったそうです。

そこで、被害に遇われた方々のところへ、職場で購入した救援物資をバイクで届けて回るように指示して、先に書いた生き埋めになった息子さんのそばで過ごすご両親のもとにも、水や食料、毛布など何度も届けさせたそうです。

父自身も水を届けてもらって助かったと言います。

救助隊がどんなに早く活動をはじめても、自分達のもとに必要な救助の手が届くまで、どれ程の時間がかかるかわかりません。

やはり、一番助けになるのは家族と隣近所、職場の仲間です。

建物の耐震補強や家具の固定、非常持ち出し袋の準備は是非しておいてください。

犠牲となった方々と助かった方々の運命を分けたのは、ほんのちょっとしたタイミングのずれだったり、僅かな幸運だったりもします。

昨日の記事にも書いたように、父だって少し時間がずれていたら、高速道路の倒壊に巻き込まれていたかもしれません。

でも、やはり生き残るチャンスを増やすのは、日頃の備えです。

きちんとタンスを固定していたために、それがつっかい棒の役割を果たして助かった方もいます。

どうか、自分と家族を守るために、どのように備えれば良いか考えてみてください。

被災した父の話は以上です。

思った以上に長くなったので、私達留守家族の様子は次の記事で書きます。

あと一回だけお付き合い下さいませ。