
私の防災・その457 阪神・淡路大震災から30年 父の残した教訓
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元々は娘の子育て中の記録として始めたブログですが、現在は主に障害児(者)家族の防災ブログとなってます
今日は私の父が被災した阪神・淡路大震災から30年。
昨日も書きましたが、私の父は自分の体験を隠すこと無く折に触れて話してくれました。
これから先大きな災害が起きて私が被災しても無事に生き延びられるようにと言う強い思い、愛情だったと思います。
自宅が倒壊したり家具が転倒して家族や当人が下敷きになり命を落としたり閉じ込められてしまった知り合いも何人もいますし、その現場にも足を運んでいます。
家族が下敷きになっても自力では救助も出来ず、救助活動中の消防隊に助けを求めても中から生存を知らせる声や音がしないからと立ち去られてしまった方もいます。
救助する側も全ての人を助けられる訳じゃないので苦渋の選択です。
生きていると確実に判断できる人から助けるしかないのです。
救助される側ではなく救助する側に回れる人が多ければ、少なくとも救助の必要がない人が多ければ、救助隊員にしか助けられない状況の人を一人でも多く助けられるかもしれません。
一級建築士でもあった父は被災する前から自宅の安全性には強くこだわっていましたから、耐震性の高い家に住んでいれば助かった可能性があるのにと非常に残念と言うか悔しい思いもしたようです。
家と言うのは命を守る器でなければならないとの信念があったと思います。
私たち夫婦が自宅を新築する時にも色々とアドバイスをくれました。
- 地盤調査はしっかりと、必要に応じて地盤改良もすること
- 基礎はベタ基礎
- 耐震性の高いメーカーで建てること
- 河川の近くの土地なので氾濫した時の避難場所に堤防よりも高い屋上を活用すること
- 家具の転倒防止をすること、特に寝室は安全な場所にすること
また、知り合いを探して訪れた避難所では
不特定多数の人達が狭くて寒い避難所でプライバシーなど無い状態で雑魚寝していたり、
混乱状態で物資も行き届かず、
断水したトイレは汚物が山になってしまっている
のを目の当たりにしています。
これは私も報道で見ましたが、断水したので飲み水が手に入らず壊れた水道管から道路に溢れた水を必死に汲んで飲み水にしようとしていた人もいます。
ですから、耐震性の高い住宅で避難所に行かずに過ごせる備えをする様に口酸っぱく言われました。
具体的には
- 水とトイレは絶対に食料も出来るだけ備えておくこと
- 支援物資は個人のニーズに合わせてはくれないから、もえもえが生まれてからはもえもえが必要なもの(食料等)を充分にストックしておくこと
- 電気、ガス、水道が止まっても生活できる知恵を身に付けておくこと
- 無駄と予備(余裕)は別物だから必需品は必ず多めに準備すること
等ですね。
その年の春に就職することが決まっていた私に仕事中に被災したら歩いて帰宅しなければならない可能性も頭に入れておくようにと話してくれました。
正直職場から歩いて帰るには距離があることはわかっていましたので、基本的には職場の安全が確認できたらその場に残って他の人と協力して過ごす方が良いと前置きした上でのことです。
被災した人同士の助け合い「共助」が一番早く一番大きな力になったことも身に染みていたからだと思います。
父自身の立場が当時職場のトップだったこともあり、動けるようになるとすぐ職場の人達の安否確認を行い、動ける人を集めて連絡がつかない人の情報収集や被害が大きかった人達の支援活動の指示をしたそうです。
阪神・淡路大震災の時には早朝で仕事中の人が少ない時間帯だったから自宅での犠牲者が多くあまり注目されていませんが、多くのビルも大きな被害を受けています。
ピロティ部分が潰れたり、鉄骨の継ぎ目部分が破損して途中の階が潰れて斜めに折れ曲がったり、道路を塞ぐ形で倒壊したビルもあります。
父が当時住んでいたマンションは新築物件だったので無事でしたが、震災直前まで住んでいたマンションは大きな被害を受けました。
建てられた時期、つまり新耐震基準を満たしているかどうかは大きな分かれ目になったようです。
その点、私の就職先がまだ新しいビルだと言うことも父にとっては大きな安心材料だったようです。
ですから、職場に留まる選択肢を最初にあげたのでしょう。
その上で言われたのが
- 歩きやすい靴で通勤するか職場に常備しておくこと
- 飲み物と軽食を通勤鞄に入れておくこと
- 職場から自宅までの徒歩経路がわかる地図を持ち歩くこと
今なら防災の基本、当たり前に聞こえるようなアドバイスばかりかもしれません。
でも、防災意識がまだまだ低かった30年前にこれだけのことを
自身の体験をもとに具体的な言葉で伝えてくれた
父は大切なことを見逃さない鋭い感覚を持っていたと思います。
1月17日と言う日は私にとって父の残してくれた教訓を大切にしていきたいと改めて感じる日なのです。