過去のおさらいは【鎌倉殿の13人】というテーマを参照してください
※この記事はドラマのネタバレを含みます
まとめ記事はコチラ
いや〜、このおさらいシリーズ
終了したと思った人もいるかも?
というくらいお久しぶりです
でもちゃんとドラマは視聴してましたよ
勝手にアンバサダーですから
NHK関連のイベント抽選には
ことごとく外れてますがね…
(勝手にアンバサダーと知っての狼藉かっw)
予想通りの義時のヒールっぷりは
ついに完成形となりました
それと同時に
”暗躍”キャラ・三浦義村も大活躍
血を血で洗う闘争…
義時の終焉とともに終わりを迎えるのか…?!
前代未聞!内裏を焼き尽くした源頼茂の反乱
ゴルアァァァア
(画像転用元:NHK公式HP)
【吾妻鏡】によりますと
承久元年(1219)7月25日
源頼政の孫・頼茂(よりもち)が
三寅(藤原頼経)の将軍継承に反対して
謀反を起こしました
この頼茂のおじいさんは
その昔
以仁王と一緒に挙兵した
源頼政(画像転用元:NHK公式HP)
歌も上手いし、鵺(ぬえ)も退治
源頼政は摂津源氏の名門の出
武士としては異例の従三位までいった人
頼茂は彼の孫なので
次は僕が鎌倉殿
と思っても何の不思議もないわけです
そもそも源氏の嫡流でいったら
正統性を語れる人物は相当数いたのでは
この頼茂、あっという間に
鎮圧されてまうのですが
その鎮圧部隊となったのが西面の武士
後鳥羽上皇の親衛部隊・西面の武士とは?
西面の武士とは
御所の西に控えていた
いわば後鳥羽上皇の親衛部隊です
白河上皇が作った
北面の武士も有名ですね
頼朝公の父・義朝や清盛の父・忠盛も所属していました
実は北面の武士出身のメンズたち
(画像転用元:NHK公式HP)
昔は色々あったのよ…
(画像転用元:NHK公式HP)
やあ、またお会いしましたね
院宣を渡す役目の「押松丸」として再登場の平知康
「押松丸」=平知康は完全なフィクションです
西面の武士に話を戻しましょう
後鳥羽上皇が結成した西面の武士の筆頭で有名なのがこの方
(画像転用元:NHK公式HP)
眼光鋭い貴族武将
が実は…
戦経験ゼロ
京都で盗賊退治や強訴対処は
したことがあるものの
実戦経験はなかった秀康
それでも後鳥羽上皇のお気に入りの彼は
千代(実朝公の正室)を京都から鎌倉へ
送り届ける栄えある護衛役をやるなど
イケメンかつスーパーエリートだったようです
若くして未亡人に…
(画像転用元:NHK公式HP)
歴史を動かした尼将軍の名演説
何度もこのシーンを繰り返し観ている息子
この演説の逸話を知って
北条政子が好きになったそうです
夏休み自由研究のテーマも
ズバリ「北条政子」
ドラマでのお庭いっぱいの御家人を前に
政子本人が演説したシーンは
【承久記】の記述を再現したもの
【吾妻鏡】では
政子の横で安達景盛が代読したとあります
其の恩既に山嶽よりも高く、溟渤よりも深し。
(吾妻鏡ー承久三年辛巳五月十九日壬寅条)
有名すぎる一文
頼朝公の御恩は山よりも高く
海よりも深いのですね
実は御家人たちは
名演説で参戦を決めたのではなく
朝廷と幕府のどちらが優勢かを冷静に判断し
どちらに付いたら一族が安泰するかと
見極めていたといいます
(歴史ロマンなくなるやんけ
)
裏番・三浦義村の弟「三浦胤義」は上皇側についた
(画像転用元:NHK公式HP)
ここでご紹介したい人物がおります
三浦義村の弟・胤義
三浦義澄(B作さん)の9男坊にして
兄と袂を分かち、後鳥羽上皇側についた異色の武将です
京都で大番役(警護の役職)に任ぜられていた胤義は
前出のスーパーエリート・藤原秀康に誘われ
朝廷側の主力武将として承久の乱を起こします
理由については諸説ありますが
【承久記】では
前夫と子供を北条家に殺された妻の
悲しみに同情していたから…とあります
胤義の妻って誰
ハイ、この方の側室だったのですよ
(画像転用元:NHK公式HP)
頼朝公の右筆(ゆうひつ)をしていた昌寛の娘で鎌倉一の美女とうたわれた女性です
右筆…公文書作成などを務める事務方官僚
頼家も息子(禅暁)も
義時に殺されてしまった悲しみが
再婚相手の胤義の心も動かしたのでしょうか
胤義は敗戦し、肝心の後鳥羽上皇に裏切られ
立てこもった京都の東寺にて
兄・義村と対面します(承久記より)
(ここらへん、ドラマでどういう風に描くのか注目
)
その後太秦方面へ逃げますが
追い詰められて自刃…
胤義と息子の首級は義村のところへ
送り届けられました
残された胤義の5人の子供たちは
三浦の母(義村の母でもある)の元に預けられていましたが
義時の命により
11歳の長男以外の9歳、7歳、5歳、3歳の子供たちは全員
逗子の田越川で処刑されました
長男だけは
三浦の祖母の嘆願で助命されたようですが
あまりに幼い子供たちを処刑するのに
さすがに躊躇した処刑人たちは
日が暮れて幼子たちの顔が見えなくなってから執行したといいます…
昭和の終わり頃までは
逗子葉山駅の近くに供養のための
首塚堂がありましたが
今はなくなってしまい
「三浦胤義遺孤碑」が残るのみ
ちなみに田越川は別名を「御最後川」ともいい
鎌倉の最南端にある処刑場として機能していました
さらされた首は最後、川に流されたのが名前の由来
相模国にはそんな地名が多い…
いや、だからね
義時を囲むホームドラマ仕立ては無理なんですって
(なかったことには出来ないからね)
番外編:大人の仲間入り!成長を祝う儀式・着袴の儀
ドラマに出てきた三寅さまの
「着袴の儀」(ちゃっこのぎ)
(画像転用元:NHK公式HP)
着袴の儀とは
子供が幼児から児童に成長したことを祝い、
初めて袴をはかせる儀式
着袴の儀は平安時代には
公家の文化として定着しました
鎌倉時代になると武家にも広がったそうです
江戸時代からは庶民にも広がり
男児のみの儀式になりましたが
近年、古式に則って皇室でも
男女を問わず行われるように
(画像出典元:NHKアーカイブス)
2006年11月、5歳のお誕生日を目前に
「着袴の儀」をされた愛子さま
可愛らしいお姿ですね
色もちゃんと決まっています
女子は濃色(こきいろ:濃い赤紫色)の小袖と同色の袴
男子は滝の意匠をあしらった和服「落滝津の御服」の上に白絹の袴
皇族男子の場合は「着袴の儀」に加え
「深曽木の儀」(ふかそぎのぎ)を執り行います
深曽木の儀
童形服を着て、右手に桧扇、左手に小松と山橘を持ち、青石の小石が二個置かれた日置盤と呼ばれる碁盤の上に立ちます。
髪の毛を鋏で切り揃えられた後、足元の小石を踏んで日置盤より掛け声とともに南へ向かって飛び降ります。
内容を見ると
かなり呪術的なもの
日程も陰陽師が決定していたといいますから
当然内容も陰陽道に即していたのかも
今上陛下の「深曽木の儀」
(画像転用元:宮内庁HP)
宮内庁のHPには貴重な画像がたくさん
庶民の間では簡略化されたり
失われたものもありますが
宮中にはまだまだ古式ゆかしい儀式が残っているのですね
今夜はいよいよ最終回
「報いの時」がどのように訪れるか
歴史の目撃者として視聴しましょう
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