「本系図」巻頭 *画像はWikiより






◆ 丹後の原像
【83.古代海部氏の系図 ~4】





前回の記事の冒頭の恒例の余談で、
肝心の系図は一体いつになったら始まるのか…について、

「次回から」などと書いておりました。
ウソ付きでした。

まだもうしばらく先になります。

丹後の主な遺跡を旧石器時代、縄文時代と紹介しました。続いて弥生時代、古墳時代と紹介せねばなりません。



弥生時代末期~古墳時代にかけては、「丹後王国」の時代であり、丹後が史上もっとも華やかであった時代。

もちろん遺跡や古社も相当数存在しています。



◎舞鶴市の方形周溝墓

本書ではさらっと2行ほどで、「舞鶴市から弥生中期の方形周溝墓が出土し…」と記されるのみ。早くも次の話題へと進んでいますが、こちらではもう少しだけ触れておきます。

舞鶴市(加佐郡)では、「由良川」沿いに縄文時代からの生活が営まれました。縄文時代の遺跡は3km等間隔に発見されているとのこと。

「由良川」について少々。
*延長146kmの一級河川
*京都府・滋賀県・福井県に跨がる「三国岳」の西側を水源とする
*南丹市・綾部市・福知山市・舞鶴市と宮津市の境を通過し若狭湾へ

支流の「宮川」沿いには、大江町「元伊勢三社」(皇大神社豊受大神社天岩戸神社)が鎮座。式内名神大社 大川神社などの大社が鎮座します。また加佐郡を始めとした多くの式内社も「由良川」沿いに。

方形周溝墓が出土した地(全てを調べきれていません)。
*大川遺跡 … 大川神社の東方すぐ近く
*志高遺跡 … 志高神社の近く

*桑飼上遺跡 … 隣村「桑飼下」の伊智布西神社からは縄文遺跡が出土(志高遺跡の対岸)


*大川遺跡 … 方形周溝墓2基
*志高遺跡 … 方形貼石墓3基、方形周溝墓30基
*桑飼上遺跡 … 方形周溝墓2基

いずれも縄文時代~古墳時代等にかけての複合遺跡。「由良川」沿いに密集して遺跡が並んでいることが分かります。




◎「大風呂南墳墓群」(与謝郡与謝野町岩滝)

「岩滝」と言えば…日ハム・オリックス・阪神で活躍した糸井選手の出身地として有名ですが…
まったく要らん情報やな(笑)

市街地から少し離れた丘陵地に「大風呂南墳墓群」があります。特筆は「ガラス製の釧(くしろ)」と鉄剣14本。

まさしく王墓。

「釧」の鮮やかなこと。この上なく美しい。いつまでも見ていられる…。
初めて完全体で、かつ原始に近い色で出土。多量の鉄剣の出土から、「強大な武力と鉄資源を持った王が君臨…」などと報道されました。

被葬者は不明。弥生時代後期後葉の遺跡。実はこの時代はよく分かっていません。
籠神社(眞名井神社)とも比較的近く、関わりはなかろうはずはないと思われます。




邪魔なものが多く写っていますが、ご容赦下さいませ。左端に「大風呂南墳墓群」があります。



◎「日置遺跡」

弥生中期の竪穴住居跡が出土しています。籠神社(眞名井神社)からは北東3~4kmほど。こちらも何らかの関連はあるのでしょう。伝世鏡(奥津鏡・邊津鏡)よりも古い時期か。






◎「加悦谷(かやだに)

この地の重要さは、この【丹後の原像】各記事にてしばしば書いてきました。

さほど広いとは言えない丹後国。人が住める平地もしくはそれに準じる台地等に絞れば、さらに狭いもの。丹後国内のどこもかしこも重要なのですが…。

「加悦谷」は「野田川」沿いに発展した、南北に細長い谷地。この川が「阿蘇海」に流入していることも、発展した理由の一つかと思います。

金久与一氏は「加悦谷」の代表として、須代神社倭文神社(与謝野町三河内)として挙げています。
須代神社は銅鐸出土がその理由、倭文神社(与謝野町三河内)は織物に対しての社であるものの古墳時代ではないかと思うのですが。

私なら須代神社加悦天満宮(厳密に言うと境内の吾野神社)を挙げたいところ。この吾野神社こそがかつて、「加悦谷」の中心地だったのではないかと考えています。


須代神社境内の案内板

加悦天満宮境内の吾野神社



◎丹後地方の銅鐸

上述の須代神社の他の銅鐸出土地は…

*「五老ヶ岳」(舞鶴市)の東裾から2体
これは西裾の間違いかと思われます。「匂ヶ崎(においがさき)」という地。住所で言えば「下安久(しもあぐ)」。

「匂ヶ崎」は地元では「にょぉーがさき」と呼ばれ、これは紛れもなく「丹生(にう)」でしょう。つまり水銀が産出されていたと。また「安久(あぐ)」というのも気になりますが、今のところ何も連想できていません。



わずか300mほど南の隣「吉原町」に鎮座する水無月神社


*「由良ヶ岳」麓
出土した詳細地情報は得られていませんが、宮津市「由良」であるとされています。2体出土。

この「由良」の地に鎮座するのが奈具神社「天女の羽衣」伝説を伴うという相当な古社で、豊宇賀賣命(豊受大神)をご祭神とします。

「ナグ」は銅鐸の古語「サナギ・ナギ」を連想させます。豊宇賀賣命(天女)が「奈具しく(心穏やかに)鎮まれり…」というのは後世の附会かと。境内の雰囲気は至って「奈具しい」もので、大のお気に入りの古社ですが。


奈具神社のすぐ近くより撮影、右手が「由良岳」。



*「梅林寺銅鐸」(与謝郡野田川町比丘尼城)
梅林寺という仏教施設の近くから出土したことによる命名。高さ1m超、極めて保存状態の良い銅鐸。2体出土、1体は消失。

通称「比丘尼城」という標高176mの低山の山腹から出土しています。

西方には式内論社 阿知江いそ部神社が鎮座。背後の山頂には「雲岩」という見事な巨大磐座群が座しています。「天岩戸」神話にて「青和幣(あおにぎて)」を作った長白羽命(忌部氏と同族)をご祭神とする社。

東方には式内社 倭文神社が鎮座。忌部氏系の天羽槌雄命を祀る社。

倭文神社を含み、南側から東側は「三河内(みごち)」という地。
その倭文神社にて行われる祭礼に、「野田川」対岸の須代神社に向かい「神招き」を三度するという神事があるとのこと。これは須代神社の祭神須瀬理姫命が、弟である天太玉命・天明玉命を伴い当地へ来て祭礼を行うというもの。これが「御神地(みごち)」と称され「三河内」に転訛したという伝承もあるようです。

銅鐸は忌部氏の祭祀に関わるものとみられそうです。

なお他に「加悦町」からも1体出土していると本書には記されていますが、これは須代神社のことであろうと思われます。少々お粗末…。




「雲岩」の巨大磐座群



◎その他の弥生遺跡

弥生式土器や祭祀遺物等が大量に出土。

*京丹後市峰山町の各遺跡
溝谷神社奈具神社(弥栄町) … 「奈具岡遺跡」
扇谷遺跡、三坂神社墳墓群、大山墳墓群(丹後町) 等
これらはいずれも「竹野川」流域の遺跡。

*京丹後市網野町周辺の各遺跡
赤坂今井墳墓、函石浜遺物包含地
これらは「福田川」流域の遺跡。

*京丹後市久美浜町の遺跡
「甲山(兜山)」の磐座(参照 → 丸田神社)


大宮賣神社境内の「古代祭祀之地」石碑。
「甲山(兜山)」雲晴神社(山頂の熊野神社の境外摂社)境内から遥拝。



■ 但馬の弥生文化と古社

古代但馬国を語る際に外せないのが「円山川」。この川の流域、もしくは支流、及び周辺で古代史が彩られました。

「円山川」下流域は海部直命、西刀宿禰父子が拠点としていましたし、内陸部の「出石(いずし)」地方、内陸奥深く山間部の「養父(やぶ)」「朝来(あさご)」地方までも。



◎「円山川」流域の各所から4体の銅鐸

*「気比(けい)銅鐸」
「円山川」の500m~1km東方を平行して流れる小さな「気比川」。その流域から4体の銅鐸が出土しています。近くには気比神社が鎮座。

「2号鐸」は島根県雲南市の「加茂岩倉遺跡」で出土したものと同じ鋳型で作られもの。
「3号鐸」は大阪府茨木市の「東奈良遺跡」(参照 → 佐和良義神社)で製作されたもの。

*「女代神社遺跡」出土の銅鐸
「円山川」中流域、豊岡市九日市の市街地に鎮座する女代神社境内から出土。

*「久田谷銅鐸」
日本海から30~40kmほどの内陸部、豊岡市日高町久田谷から出土。「円山川」支流の「稲葉川」北岸の丘陵地より。近くに八坂神社が鎮座。

東隣の「祢布(にょう)」には国府があったとされます。「にょう」は「丹生(にう)」からの転訛でしょう。
出土地の東方の山頂に式内 高負神社(たこうじんじゃ)が鎮座。詳細不明ながら、「高負の神を高田の丘、大売布を射楯丘に祀る」とあるようです。式内 売布神社が国府跡の東側に鎮座します。これらからやはり水銀が産出したものと思われます。

いずれの銅鐸出土地の近くに神社が建てられていることを挙げています。





今回はここまで。

但馬国の遺跡、神社にリンクを貼れなかったのは、全然巡られていない証拠。

昨年中に予定していたのですが…
いずれその時が来るであろうことを願います。



*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。