志高神社


丹後国加佐郡
京都府舞鶴市字志高小字長野318
(境内に駐車可)

■祭神
菅原道真
田心姫命
市杵島姫命
湍津姫命


舞鶴市西部、「由良川」沿いの「志高(しだか)」集落内に鎮座する社。
◎創建等については社頭案内板によると、「天平年間(729~749年)の丹後風土記 正應年間(1288~1293年)の田数帳 元和年間(1615~1624年)の丹後國中神名帳に於能知神社菅原道真 岩倉神社田心姫命市杵島姫命湍津姫命の名を留め 大正十三年に天神山鎮座於能知神社を岩倉神社の神域に合祀し志高神社と改稱せらる」と。
◎当社沿革は不明なものの、当地について留意したい点がいくつか。
まず一つ目は「丹後国風土記」残闕から日子坐王に関する記述。かつては「志託郷」の字「荒蕪(しぐき)」と称されていたとあります。
日子坐王が陸耳御笠(クガミミノミカサ)を追討し「青葉山」から当地へ(詳細はテーマ「丹後の原像」の「失われた大王玖賀耳之御笠 」123 の各記事参照)。 この時、陸耳御笠は稲梁の中に隠れたので日子坐王も稲梁に入ったが、陸耳御笠は雲を起こして空中へ飛び去ってしまいます。日子坐王はしばらく稲梁を「荒蕪(しぐき)」為していたと。
この「荒蕪」が「志託」へと転訛したとされています。「荒蕪」は文面から判断して、いわゆる地団駄(じだんだ)を踏んだということであろうと思います。ところが「しぐき」といういかにも古代朝鮮語の響きを匂わせる語、何か裏がありそうです。
◎次に当地には「志高遺跡」があります。縄文前期のもので、土器などが出土しています。
日本海からわずか10km程度、「由良川」の水運を利用して太古より人が住み着いていました。「由良川」沿いに3km等間隔で縄文時代の「ムラ」跡が発見されるようです。「大川遺跡」(大川神社の東方すぐ)、「桑飼下遺跡」(伊智布西神社境内)などが近隣では発見されています。
◎さらに当地には近年まで「志高炭鉱」というのがあったようです。かつては鉄も採れていたのではないでしょうか。その利権を巡り、陸耳御笠と日子坐王とが争ったように考えます。
◎もう一点、「由良川」は当地で緩やかに湾曲しており、洪水をたびたび洪水を起こしたようです。平成十六年には住民がバスの上に避難し一命を取り留めたことで、当地の名が全国的に知られる災害も。当社由緒が古記録に見えないのはこのせいかもしれません。