どうなんでしょう、ブログ記事をひとつ書き終えるのに費やす時間はどのくらいなのでしょうねえ。個人的なことで言えば、なんだか妙に時間かかってんなあ…というのが毎度のことになっておるような。何せ、朝落ち着いたところでPCに向かうと、いつしか「あらら?お昼になっちゃう!」てなこともないではないという(いつもではないですけれどね)。

 

なまじ(誰に求められるでもないのに)UPする時刻という締切を課していたりすることが切迫感があるも、それがなければいつまでも書きあがらないてなことになるのかもですなあ。なれば、何故にかようなことになるかと言えば、書きながら推敲しつつ、また校正もしつつ書いているからなのでしょう。ま、ご覧いただいた結果として、これが推敲し、校正もした結果であるか?と思われることもありましょうが、それはそれとして(笑)。

 

ともあれ、そんな性質だものですから、本や他の文章を読んだり、はたまた何かしらの語りを耳にする場合でも時に「ん?!」と思い、校正したくなってしまったりすることもあるわけで。だからこそ、例えば『文にあたる』とか、「校正」に関わる本を手に取ったりもするのでして、このほど読み終えた『ことばの番人』もしかり。「校正者の精緻な仕事に迫るノンフィクション」という触れ込みですし。

 

 

著者は夙に知られたノンフィクション作家だけに「うまい文章の書き方は?」などと尋ねられることがままあったらしい。そんなことがあってよくよく考えてみると「文章は私が書いたものではなく、彼ら(校正者)との共同作品なのだ」と思い至り、そこから名だたる(?)校正者にインタビューをして…というふうに出来上がったのが本書ということのようで。

(校正で)チェックすることを「ケチを付ける」などとバカにする人もいるが、彼らは優れた読み手である。文章を読むだけではなく、不特定多数の一般読者はこれをどう読むか、ということも読む。自分だけではなく一般的な読みまでも読み込むわけで、その視点が入ることで文章はひとりよがりを脱し、公共性や社会性を帯びる。彼らに読まれることによって言葉は練られ、開かれていく。

ちと長い引用になりましたですが、ここには校正の真髄が見て取れるような。書き手が「これでよし」と思った表現が、読み手にとって誤解やミスリードを生む可能性を孕んではいないだろうか?といったあたりにも目配りされるという点で。何も誤字脱字の確認だけが校正ではないわけですね。

 

もちろん、誤字脱字の存在は文章を至って間抜けなものに見せてしまいますから、これの有無を確認することは大切ですけれど、例えば歴史的事実やら年号やら人の名前やら場所の名前、そうしたあたりに書き手の思い込みがあるケースもないではないので、事実関係の突合せもまた大事になる。思えば、個人的にひとつ書き上げるまでに時間を要するのは、多分にこのあたりの突合せをできるだけ細かくやっておこうとしているからでもあるなと。

(ネットの普及によって…)目を覆うばかりの誤字脱字の氾濫。校正者の不在によって誤字脱字が世にあふれかえっているのだ。送られてくるメールは漢字変換ミスのオンパレードで、おそらくは読み返されていないのだろう。ネット上の書き込みもひとりよがりを超えた罵詈雑言や事実関係を無視したデマの垂れ流し。いっそのこと学校では「国語」ではなく「校正」を教えるべきではないかと思うくらいなのである。

こんな作者の苦言に「なるほど、そうだよなあ」と思うも、個人的に自らも垂れ流しの元になってはいけんと思っておりますし。

 

ちなみに校正者とのインタビューの中で、ちょっとした違いで文章がよくなる三つの改善点が紹介されていましたので、記憶にとどめておくことにいたしましょうね。

  • 句読点をひとつ入れる。
  • 言葉の順番を変える。
  • 修飾語と修飾される語を近くにする。

まあ、当然ともいうべき文章作法(とは大仰ですが)ながら、文章を書く、というよりキーボードを叩いてだらだらと打ち込んでおりますと、流れに任せてすっかり失念してしまうこともあるわけで。

 

専門家ではないものの、かつて仕事で散々に校正(まがいのこと)をやってきましたですが、本書カバーに見るような整然とした赤入れを見ると惚れ惚れしてしまいますな(笑)。「うんうん」と頷ける指摘が満載されているのは、本書の見どころのひとつかと。

 

一方で、校正をきっかけにした作者の探究がさまざまに本書の中で展開して、例えば「日本国憲法」でさえ数多の誤植があり(それを正すには憲法改正という大袈裟な手続きになりますので、別の法律で補ったりしているとか…)、さらに突っ込めば解釈不明の箇所もあり、それに対してどう考えるかといったあたりのことは、「日本国憲法」の捉え方そのものに関わることであったりすると気付かされたりも。

 

具体的なところは直接本書にあたっていただくとしまして、校正にまつわるあれこれのお話、興味深く感じつつ読み終えた次第でありますよ。

 

何とはなしに映画『レディ加賀』を見ていて、先に甲府の「信玄公祭り」に託けて飲みに行った友人の話を思い出したり。祭りの当日に「甲府にこんなに人がいたのか?!」と思ったことは胸の内として、「ずいぶんと人が出てるねえ」と友人に水を向けますと、「80万人もいないんだよなあ…」とポツリ。

 

最初は甲府市の人口のことを言っているのかと思ったものの、これが山梨県全体の話であったのですな。つい先ごろに総務省が発表した2024年10月1日時点の人口推計によりますと、山梨県は79万人余りとありましたし。

 

こうしたことに行政としては危機感を抱くのかどうか、「信玄公祭り」のような観光イベントで盛り上げようという思惑はありましょうなあ…と、「町おこし」を観光イベントに頼るのはよくある話でして、『レディ加賀』もそんなような話ですので、連想が働いた次第です。

 

映画の舞台となる加賀温泉郷は石川県にありまして、その石川県は先の人口推計では109万人と百万人台ではある(ちなみに百万に満たないのは全国で11県)ものの、そのうちの45%くらいは金沢市という一強状態ですので他の自治体のようすは想像に難くないところかと。で、「町おこし」的に加賀温泉郷では「レディー・カガ」プロジェクトが立ち上がるわけですな。「加賀温泉郷の情報発信、おもてなしの向上を目指し」ていると「Lady Kaga Official Site」に。

 

どうしたってレディー・ガガを思わせるだけに、映画タイトルを見た時には「よもや、実話ベースではあるまい」と思ったものですが、映画のような登場人物のキャラクターやらタップダンス・イベントやらは作り物でしょうけれど、背景として「レディー・カガ」は確かに存在したのでしたか…。

 

ちなみに、ネーミングの類似性からレディー・ガガが訴えたとかいう話もありますが、そもレディー・ガガ自体、クイーンの『レディオガガ』からパクったのでもありましょうから、あんまりとやかく言えたものではないようにも思いますが。

 

と余談はともかく、「レディー・カガ」の町おこしプロジェクトは偏に観光振興なのだよなあと。確かに観光振興で来てくれる人が増えることで町の活性化が促されるという面はあるのだろうとは思うものの、その町に暮らす人は温泉関係者ばかりではないわけで、限定的なのではなかろうかとも。

 

その点では先に触れた甲府の「信玄公祭り」も同様と思えるところながら、世界最大の武者行列を謳う祭りには数多くの一般市民が参加するわけでして、祭りを見る(屋台の飲み食いを楽しむなども含めて)ことを楽しみやってくる観光客の誘致もさりながら、地元民が盛り上がる機会ともなっている点で違いがあるような気がしたものです。

 

町おこしの必要性は、そこに住まう人たちにそも活気が失われていること自体を何とかしたいという思いからということもあろうかと思ったりするのですよねえ。ま、そんなふうに思い至るのも、相前後して英国映画『ドリーム・ホース』を見たからとも言えましょうかね。

 

 

かつて炭鉱町として賑わいを見せたウェールズの片田舎では、廃坑後にすっかり町は寂れ、住まう人たちもどんよりしたふう。そんな中、ただただ動物好きという普通の主婦が競走馬を育てることを思いつき、町の人たちからなけなしの金を集めて馬主組合を作ることに。

 

集まった人たちも、眉唾ものとは思いながらも「育てた馬がレースで勝てば大金の配当が得られる」という欲得ずくで参加していくわけですが、やがて馬の育っていくようすに一喜一憂するようになって元気を取り戻していく。そして迎えたレースでは、ドリームアライアンスと名付けた自分たちの馬が大活躍し…と、出来過ぎた話に思えますが実話だそうで。

 

で、この話などはそこに住まう人たちが元気を取り戻す、町の状況は全く変わっていないのに町自体も元気になったようになる…と、このあたり、町おこしのひとつのありようなのではないかなと思ったのでありますよ。観光頼みもひとつの方法だと思いますが、度が過ぎるとオーバーツーリズムを引き起こしたりもする他力本願なものばかりでなくして、そもそも観光に頼むことができない自治体もありましょうしねえ。

 

そこに住まう人そのものが元気になる何らかの形というのは、全くそれぞれにあるような。それをなかなか発想できないのが現実で、例えば競走馬を買うなどというのは「なにをたわけたことを」で終わってしまう可能性大でしょうから、現実は厳しく難しいなとは思いますけれど、こんなありようもあるということではありましょうね。

1980年代の前半でしたか、山下和仁というクラシカル系のギタリストの演奏にびっくらこいたことがありました。「ギターは小さなオーケストラ」とは言われるも、大規模な管弦楽曲を自ら編曲してギター一本で再現してしまう。演目はムソルグスキーの『展覧会の絵』だったかストラヴィンスキーの『火の鳥』だったか(なんだ、覚えてないのか…)、ともあれ東京文化会館小ホールのリサイタルに出向いたのですが、クラシック・ギター演奏のリサイタルに足を運んだのは、後にも先にもこの時だけでしたなあ。

 

と、それから優に40年余りを経て、クラシック・ギターの演奏会に出かけてみたのでありますよ。ま、今回はソロ・リサイタルでなしに、デュオですけれどね。村治佳織と実弟・奏一による姉弟の演奏会です。

 

 

同じくギター教師の父親から最初の手ほどきを受けた姉弟だけに、均質な響きでデュオに馴染むのでああるか…などと勝手に想像しておりましたが、二人がクローンでできているわけではなし、ギターに関してはそれぞれ違う個性を育んだのでしたか。トークに曰く、付いた師匠も違う(福田進一と鈴木大介と)、留学先も違う(フランスとアメリカと)、使っているギターの制作者(アメリカ人とドイツ人と)も材質(杉材と松材と)、そしてつま弾くための爪の形も、と。

 

こんなふうに言われたからではありませんですが、個々のギターからこぼれ出る音色はやはり異なるものがありますな、当然ながら。詳しくない者の単なる印象ですけれど、奏一の方がエッジが立った感じで、時にスチール弦が張ってある?てなふうにも聴こえたり。よりポップス系の曲に馴染むような気がしたですなあ。

 

一方で、佳織の側からはもそっと、ふわっとした感じの音が聴こえる。粒立ちのくっきりは弟にあるも、ふんわり感はより包み込む雰囲気があるように思った次第です。そんな違いを時に際立たせつつ、時に馴染ませつつ演奏されたのは、映画音楽由来の曲が多く、聴き馴染みのあるメロディーもいろいろと。

 

まあ、地方公演(一応、会場のある立川は東京都ではありますが、地方のようなもので…)では、集客の関係もあってか、あまり攻めたプログラミングはされないようですので、ほどほどのところですかね(オケの地方公演ではやたらに「新世界より」とか、いわゆる名曲ばかりですものね)。

 

ということで、ギター曲といえば!的な「アルハンブラの思い出」とか、アンコールで演奏された「禁じられた遊び」とか、悪く言えば耳タコというか、手垢が付いた曲というかもあったわけですが、これらの曲に改めて耳を洗われる思いがしたのはライブならではなのでしょう。

 

自宅にいて、もはやレコードやらCDやらを取り出して聴こうとも思わなくなった曲ながら、手垢が付こうが耳タコだろうが、要するに名曲として残る由縁に触れた気がしてものでありますよ。キン!とした響きが曲に適っていた奏一ソロによる「エストレリータ」も、曲としては今さら的なるものながら、しみじみとしてしまいましたですよ。

 

「珠玉の小品集」といいますと昔の廉価版LPのタイトルみたいですが、たまにはいいもんですなあ。オーケストラの地方廻りでも、いっそのこと名曲は名曲として小品集でプログラムを組んでもらえないものかと、思ったものでありますよ。

松島海岸の観瀾亭松島博物館は海沿いにちょいと高くなった岩場の上のようなところにありましたので、これを駅の方に向かって下る途次、ひとつの石碑を見かけて「ん?!」と。

 

 

左端に見えているのがその石碑ですけれど、一度やり過ごすも傍らにあった解説板の文字を反芻して、ちと後戻り。「どんぐりころころの碑」とあったような…。

 

 

歌詞の内容からするともそっと山がちな場所のイメージですけれど、「松島が舞台?」ということではなくして、作詞者が地元松島町出身の文学者青木存義であるというのがゆかりのようでありますよ。

 

と、そんな寄り道をしつつもJR仙石線の松島海岸駅を目指しましたのは、そのあたりでちと早めながらも昼食場所を見つけて、帰途に就こうという算段でありまして。何せ観光地だものですから、観光船の船着き場や瑞巌寺に近い界隈は混んでいると見越して、駅方向に近づいた次第。おかげで、もはや駅前ローターのうちと思しきところで、名産の牡蠣を扱う専門店に入ることができました。

 

 

実に狭い店内で先客がいたところへ入り込むと、それで後の人たちは「外でお待ちを」てな具合で。先客が店の人に「SNSを見てきました」などと言っていましたし、外には「Oyster Specialty Store」てな英語表記がありましたので、インスタ頼りでやってくるインバウンド客もいるのでしょう。早めに覗いたのが奏功したわけですな。ちなみにメニューはこのように。

 

 

朝から歩き回ってましたので喉の渇きを癒すべく、ここは生ビールの付いた「オイスタープレミアムBセット」で。殻付き牡蠣が3個出るのですが、「生・炙り・焼き」からお好みで選べるのであると。面倒な注文でもありましょうに、「生・炙り・焼き」を一個ずつという選択も可なのですなあ。

 

 

文字通りの牡蠣三昧を堪能して、もう少し欲しい…と思うくらいが潮時かと。最後には牡蠣のひつまぶしも控えておりますし。

 

 

いやあ、うまかったですなあ。元々、今回はあちこち回って余裕があったら寄ろうかなくらいで臨んだ松島でありました(なんとなれば、混んでるだろうと思ったから)が、〆にふさわしい満足感を得て帰途に就くことに。何せ、松島海岸駅は目の前ですのでね。

 

 

「奥州宮城仙石線沿線紀行」と看板を掲げながらも、旅の始まりでは仙台から仙石線とは似て非なる仙石東北ラインで石巻にたどり着いてしまいましたが、最後の最後は看板に偽りなく仙石線で仙台へ出て東北新幹線に乗り継ぎ、帰ってまいりました。

 

 

ということで、途中で予期せぬ中断(PC不良)があったりもして、昨年11月末の旅を振り返るのに春までかかってしまいましたが、「奥州宮城仙石線沿線紀行」はこれにてようやっと全巻の読み終わりにございます。さてと、次はどこへ行きましょうかねえ…。

松島海岸で伊達仙台藩ゆかりの観瀾亭に立ち寄りましたところ、入場料200円は松島博物館という施設と共通になっておるとなれば、どれどれ?と博物館も覗いておくわけですな。

 

 

確かに玄関には松島博物館とありますが、どうやらこちらは開かずの扉であるようす。実際の入口は観瀾亭の裏手に廻ったところにあるようで。こちらになります。

 

 

入口を示す立て看板には「旧時代の書画、絵画、寛文初年の絵図面他等が陳列されております」と書かれていましたけれど、見るからに(こういってはなんですが)やる気なさそうな印象を醸し出しておりますなあ。が、ふるカフェ巡りのハルさんではありませんが、「博物館の印象はファーストコンタクトで決まるといっても過言ではない。いざ、まいる!と。

 

 

頭の中では当然に、BGMとしてバッハの無伴奏チェロ組曲第1番からクーラントが流れているわけですが(Eテレ『ふるカフェ系 ハルさんの休日』をご覧になったことがありませんと、何のことやらでしょう…)、一歩中へと入りますと思った以上の脱力系に「う~む」ともなりましたですよ(笑)。

 

 

ともあれ、展示の目玉のひとつと思しき品がこちら、谷文晁描くところの『松島真景図』かと。天明年間「当時の松島のようすがわかる貴重な資料ということで。あまりに長いものなので、ちと部分的にクローズアップしてみますかね。

 

 

中央には五大堂、その下の陸地部分には瑞巌寺が描かれていますので、まさに松島の船着き場のあたりがここに描かれておりますな。で、ここからずう~と海岸線を辿っていきますと、観光船に乗船した塩釜にまで至るという。

 

 

右下に境内が囲われた形で記されているのが鹽竈大明神、つまりは鹽竈神社ですのでね。「鳥瞰図という鳥の目線で描かれたもの」と解説されるも、どれだけ遠目の利く鳥であるか?と思ってしまいますな。あたかも吉田初三郎の名所案内を見る如しではなかろうかと。

 

一方で、正確さを求めた地図としてはこんなものも。測量技術に西洋式を取り入れたであろう明治16年(1883年)に製作されたという松島湾の海図になります。

 

 

松島湾は島が多く、しかも海苔の養殖が行われるような浅瀬もありますので、航行する船にとっては水深は重要な情報で、おそらく江戸期までは漁師の経験で航路の知識が積み重ねられたのでしょうけれど、詳細な地図に可視化されたというわけですな。

 

と、それにしてもこの松島博物館、展示物は相当に雑多な印象がありますですよ。なにせ、こんなのもあんなのもといった感じで。

 

 

例えば、縄文後期の土器が展示されているかと思えば、かつて東北本線が通っていたという幻の線路を紹介するパネルもあり、はたまた近所の学校の自由研究成果でもあるか?というような。

 

 

 

観瀾亭に付随する博物館なだけに、どうしても伊達家に関わる歴史的資料があるものと予想してしまうわけですが、「松島」を伝えていくには現在の状況を知らせることも忘れてはならない。漁業が盛んな地域だけにアマモ、魚たちの産卵場所となり、水質の浄化にも役立つという「アマモ場」を回復させる取り組みが続けられているといったあたり、松島の現在の話題ということでありましょう。

 

 

ということで、極めて大雑把ながら松島博物館の展示を見てきました。最後には展示室の奥にあったビデオ上映を見ていたですが、これは日本遺産に認定されている「政宗が育んだ”伊達”な文化」の紹介でありましたよ。

…(政宗は)伊達家で育まれた伝統的な文化を土台に、上方の桃山文化の影響を受けた豪華絢爛、政宗の個性ともいうべき意表を突く粋な斬新さ、さらには海外の文化に触発された国際性、といった時代の息吹を汲み取りながら、これまでにない新しい“伊達”な文化を仙台の地に華開かせていった。

こんなふうに「日本遺産ポータルサイト」にありますとおり、絢爛さが強調されるところ(瑞巌寺の障壁画とか)ですけれど、政宗はじめ代々の藩主は領内の観光プロデューサーでもあったような。瑞巌寺、松島、鹽竈神社、多賀城、そして古来歌枕とされてきた数々のスポットの紹介に努めたようでもありますし。ま、そうした視点は他の東北諸大名には無かったでしょう。そんなこともあって、仙台は東北随一の都市になってもいったのでしょうかね(といって、今回は仙台をかすった程度でしたけれど)。