昨日のニュース番組だったかで、果物の栽培で「生理落果」という現象があることを知ったのですな。大雨、大風などの物理的要因によって実が落ちてしまうのではなくして、もっぱら果樹の側の生理的な自己都合とでもいいますか、おそらくは果樹自身にとっては何らかの自衛手段のようなものなのかも。ニュースでは、昨年のリンゴの不作の一因の生理落果によるとしていたようですけれど、では生理落果は何故起こるのか?
分かり易そうなところで、住友化学園芸の「eグリーンコミュニケーション~ガーデニング・園芸・家庭菜園・くらしの情報サイト~」をちと参照してみることに。
成熟後の落果は、暖地で見られることが多く、これは気温の高いことで成熟が促進され、着色が不十分のままで果実内の成熟が先行するためで、果皮が緑の状態でも落果しやすくなります。この場合は晩生種で日持ちの良い「ふじ」や「国光」などの品種を選べばよいでしょう。
本来は季節の移り変わりと時を同じくして、実の中も外側もじわじわと成熟していかねばならんところが、あまりに暑いので中身ばかりが先走って成熟してしまう。結果、もう熟してますよとばかりに、樹木の側で判断して実を落とすということになりましょうか。
以前に岩波新書の『視覚化する味覚』を読んだとき、(リンゴでなくして、オレンジとかレモンとかの話でしたが)夏から秋へと向かう気温の変化によって外皮の成熟(ヒトが見た目でおいしそうと思う色付き)が進むてことが書かれていたような。リンゴもやはり、暑いばかりでは外皮の色付きが今一つのうちに熟してしまった結果、収穫する側にはサインを感じとれなかった…てなことでもありましょうかね。
とまあ、そんな話題を耳にした後、池袋の東京芸術劇場で読響の演奏会を聴いてきたのですなあ…と、全く話が変わるようでいて、実はそうでもないという…。
ウェーバーの歌劇『オペロン』序曲や、ナチスから逃れたアメリカで映画音楽に携わってむしろ有名になったコルンゴルトのチェロ協奏曲などを聴きながら、つい先日の演奏会「にじクラ」で思い巡らした劇伴やら映画やらと音楽のことに再び思いは戻るかと感じたところで、プログラムの最後、リヒャルト・シュトラウスの『ばらの騎士』組曲に至って、もの思いはリンゴへと立ち戻ることに。
ひとつ前の曲から舞台転換をするにあたって、新たに奏者がぞろぞろと登場する様子に隣に座る友人からは「大編成だぁね」というつぶやきが。はたまた、全く知らない人ではありますが、反対隣りの女性お二人の方でも「大きな編成ねえ」という囁きかわしが聴こえてきたのでありますよ。シュトラウスの大編成はとうに知れたことてな感覚でいたところながら、改めてそうした声を耳にしますと、なるほど大編成であって、ホルンの咆哮に始まる曲自体にもゴージャス感が漂う。ですが、元々この原曲のオペラのお話は要するに恋愛喜劇なのだよなあと思い至ったときに、「なんだってこんなに大袈裟なオーケストレーションを施したのであるかな」と。
演奏会のプログラムに「情痴のもつれや殺人という生々しい主題を大規模な管弦楽を用いて表現する方向性」云々と紹介がありましたですが、インティマシーな話題をことさら大仰に表現することの違和感を今さらながら抱くとともに、世紀末という時代背景(原曲オペラの作曲は1910年)を改めて考えてしまうことになったのでありますよ。
19世紀末(から20世紀初頭)の頽廃と爛熟。このあたりはシュトラウスの音楽に限らず、クリムトあたりを例として美術の世界などにも見られる時代の空気かと。で、「爛熟」という言葉が思い浮かぶに及んで、冒頭に触れたリンゴの話題と(いささかなりとも?)つながってくるわけで(無理無理ですかね、苦笑)。
ともあれ、音楽の世界ではいわゆる後期ロマン派と呼ばれる時代には、マーラーなどもそうですけれど、オーケストラはやたら大編成になっていきましたですねえ。一曲の規模もまたしかり。それの最終到達点のようなところにリヒャルト・シュトラウスがいて、大編成管弦楽による作品を生み出した。やはり時代の空気の中でです。
さりながら爛熟が極まれば、もはや落果するしかありませんですねえ。世紀末を挟む同じ頃にシェーンベルクは(『グレの歌』といった大編成楽曲を書いたりもしますが)無調の音楽、十二音技法による音楽を作り出していくわけで、対比するにこれほど鮮やかな対比は無いですよね。至って静謐な音楽だったりするわけですから。
クラシック音楽の潮流で影を潜めることになったゴージャス・サウンドはやがて、コルンゴルトが携わるようになった映画音楽などの世界に別の花を開かせることになりますけれど、それはそれとして、後期ロマン派から20世紀音楽への変転、この転換は音楽界の中で起こった「生理落果」のようなものなのかもしれませんですねえ…。