「あの頃は、そういう時代だったんだぁね」と思い込んでしまうのはどんなもんでしょ的なことを
先に書きました けれど、一面だけを見て判断(予断?)を下すことの「どうよ?」感は
人間のことでもおんなじでありましたですね、ふと気付けば。


といって、ここで人間性の表裏とか多重性とか、
そういった深みを探るようなことまではしようとは思っとりませんですが、
例えば、「青の時代」のピカソ 作品に馴染んでいる方が「白の時代」の作品を見ると、
「えっ?!」と思うようなことがありましょう。逆もまた真ですが。


とても同じ作家の手になるものであるとは俄かに信じがたいような作風の変化は
ピカソに限らず、まま見受けられるところではないかと。


と、画家を引き合いに出しておきながら何ですが、これからの話は作曲家のことになのでして、
語り起こしは先日聴いた読響演奏会からであります。


読売日本交響楽団第537回定期演奏会@サントリーホール


プロコフィエフの古典交響曲、ヴァイオリン協奏曲第2番、
そしてリヒャルト・シュトラウスの交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快な悪戯」と
楽劇「ばらの騎士」のメロディーを使って編曲された組曲というのが当日のプログラム。


そして、冒頭の話との関連からすれば、
ここで取り上げるのはプロコフィエフと想像される方もおられようかと思います。

例えばですが、とっつきやすさの点で演奏された2曲を比べただけでも、

「変化しとる!」と思えるところですし。


それに比べると、リヒャルト・シュトラウスの方は大管弦楽を使って

派手にゴージャスに(時には繊細にですが)鳴らす、

世紀末の爛熟の代表格のような印象に貫かれています。


ここで演奏された「ばらの騎士」にしても、

モーツァルトの「フィガロの結婚」を思わせる宮廷話とは言われますけれど、

むしろ「アイズワイドシャット」の方を思い出してしまうような…。

(シュニッツラーの原作といった方がいいでしょうか)


ということで、リヒャルト・シュトラウスらしさを改めて思い、これに浸る演奏会だったわけですが、

たまたま演奏会場に足を運ぶ前に立ち寄った新宿のディスク・ユニオンで、

予て探していた曲のCDが見つかったものですから、買っておいたのですね。

実はそれもリヒャルト・シュトラウスの曲でありました。


Piano Sonatas Op. 5 / Klavierstucke Op. 3/Strauss


収録されているのは、ピアノ・ソロの曲ばかり。

およそ演奏機会もない曲で同様に録音も少なく、ようやっと巡り会った気がしたものの、

手にするまでにあまり長く掛かったので、どんな曲だったか忘れていたものですから、

ほとんど初めてのような気持ちで聴いてみたという。


すると(ピアノ独奏だからということもあるのでしょうけれど)、

濃密な芳香に取り巻かれるのとはずいぶんと異なる、

ほのかなロマンの香りに彩られた何とも初々しい曲ではありませんか。


作品番号が3、5、9と若い番号なだけに、予想はしましたが

何でもシュトラウスが17、8歳の頃に書いた作品であるという。

やっぱり当然のことながら、若い頃には若い頃なりの、後年とは異なるものがあるのですよね。


…ということで、そこいら辺から考えを巡らせてみれば、

部分的な印象だけで「この人はこういう人だから…」みたいに考えるのもどうよ?

と思ったのでありまして、気付いてみれば余り音楽の話ではありませんでしたですね。


そうそう、もし曲の方が気になる方は、YOUTUBEあたりで

「richard strauss five piano pieces」と入れて検索していただければヒットするかと。

作品3の頭の部分で後の大交響詩との違いをお楽しみくださいませ。