およそコロナを気にすること無しにGWを過ごせたからでしょうか、週末の賑わいはコロナ以前にも増しているような気がしますですね。不思議なことに?人出が多いところほど(混んでいる電車も同様ですが)マスク着用率が低くなっているようです。これが地方(多摩地域もその内に入ると思っております)の日常生活においては、人どおりも多くないにも関わらず、一定の着用率がある。なんともアンバランスというか、まあ、都会の人の方が楽観的というか、前向きというのか…よくは分かりませんけれどね。

 

とまあ、そんな前振りをしましたのも、ちょいと出かけて行った横浜、桜木町の界隈は賑わっておりましたなあ。個人的には単純に横浜みなとみらいホールの往復だけでしたけれど。で、この日の演奏会は大曲ひとつのプログラム、読響によるマーラーの交響曲第3番でありましたよ。

 

 

1曲でおよそ100分に及ぶ(途中で合唱団の入場やらを含めるとも少しかかる?)作品は、その長さと同時にステージ上に溢れんばかりの演奏者(通常より楽器が多いのに加え、女性合唱、児童合唱、さらに独唱メゾ・ソプラノも)の多さから、そうたびたび演奏されるものでもないところでして、個人的には2度目になりますが、普段はもっぱらCDを通じて自宅で聴いているのですなあ。ですが、当たり前のことながら、コンサートホールの生音で聴いてみないと分からない(気付かない)ことも多々あるのですよね。

 

冒頭からホルンの強奏で始まりまして、途中途中に顔を覗かせるトロンボーン・ソロや切り裂くようなトランペットの叫びなども含め、CDで聴いているときから「こりゃあ、金管楽器、へろへろだろうなあ…」と想像するところを、実際目の当たりにしていますと「へろへろどころではすまない」状況をつぶさに見て取る(聞きとる)ことになるわけで。それだけにプロ(奏者)のド根性を感じたりもしたものです。

 

ところでこの長尺な楽曲、プログラム・ノートに「破天荒というほかない」とあるのは、単純に「そうだろうなあ」と思っておりましたですが、曲をききながらつらつら思いを巡らしてみますと、「そうとばかりも言えないのかも…」という気がしてきたのですな。

 

なぜに破天荒という言葉が当たるのかといえば、その楽章の多さや合唱などを含めた演奏規模の大きさでもありましょうかね。確かに、タイトルにあるとおり「交響曲」ということになっていて、交響曲といえば一般に4楽章であろうところがこれは6楽章もある。そしてまた、交響曲といえば純器楽的な楽曲であろうに声楽が(大がかりに)入っていますし。

 

さりながら、4楽章構成というのもハイドンあたりが起承転結に擬えておさまりがいいので多用したということであって、音楽の表現として「4楽章でなければならない」ということでもないだろうなあと。モーツァルトには3楽章で「これでよし!」と考えた?交響曲がありますし、より多楽章の方向はベートーヴェンが切り拓いていますしね。また、純器楽でなしに声楽を取り込む方向性もまたベートーヴェンがすでに試みていますから、純器楽の絶対性もまた必ずしも…でもあろうかと。

 

マーラーの場合、それにも増して何かと規模がでかいとは言えるわけですが、それでも作曲家にとってその音楽で表現するところが「これでよし」となるのは傍から見てこぢんまりと短かろうと、はたまた巨大になって長くなろうと、作られたものを受け止める側の考えとは関わりのないところと言えましょうか。マーラーにとっては、これだけの規模の作品こそが自分の表現に適う形であると考えたのでありましょう(たぶん)。想像するに、19世紀頃には小説作品にやたらに長い大作が作り出されたりしますが、そこには通底する思潮があったりするのかもと勘ぐったりしたものです。

 

では、その形を通して何を表現したかったのかですけれど、演奏会のプログラム・ノートに曰く、本作の理念はずばり「自然」であると。ただ、曲を聴いていて思うところは、そこに人間の営為といったあたりを含んで「自然」と言っているのであればその通りであろうかなと。ただただ「自然」といったときに受ける印象以上に、そこには人の世が描かれているように思えてきたらなのでありますよ。

 

曲の中ではマーラーお得意と思しき、鳥のさえずりを模した楽器用法が出てきて、なるほど単純に考える自然を表してもいると思う一方で、さまざまに行進曲調のフレーズが出てきて、これが現れては消え、また別のメロディーが被さって来たり…といったあたり、いわばカオスのようでもありますが、冷静に考えてみますと、そんなふうに音がカオスになってそこにある時間を過ごしているのは、まさに人間の日常生活にあることなのではないかなと。

 

そうはいっても、マーラーは予め楽章ごとにつけていた標題(それに依拠すれば人と自然の関わりを想起させもするのでしょうすけれど)を出版の段階で取り下げてしまったのだそうですねえ。ということは、マーラー自身としては自然なのか、人の営みなのか、その辺りのイメージで作曲したのかもしれませんが、声楽が入っている(歌詞に意味がある)ことだけでも説明的であるのに、その上に楽章ごとに標題まであってはあまりに説明しすぎるとでも思ったでしょうか。最後の最後になって「交響曲」という伝統的なフォーマットをいささかなりとも意識したのですかね。

 

マーラーはマーラーなりの考えが交響曲作りにあって、1番から2番、2番から3番と巨大化の一途をたどりましたけれど、3番が「これでよし!」となったところで、「やり過ぎたかも」感が募ったのかもしれませんですね。だからこそ、これまでと変わって交響曲第4番は幾分小ぶりになり、また5番からは純器楽で表現しようとしてみたりしてもいますし。ま、その後も思いが揺れ動いたであろうことは8番や「大地の歌」と第九の創作の違いにもなってくるのだろうかとも。

 

てなふうな思い巡らしをしながら、すでに曲は大団円を迎えるということになっていったわけですが、この長い作品が最後に辿りつくところは「こんなにも祝祭感のあるものであったか…」と。当然のことながら、自宅でCDを聴いている限りでは、コンサートホールで聴く(体感する)ダイナミックレンジに全く及ぶものではありませんので、結局はこれまで聴き流しになっていたのでしょう。こういってはなんですが、改めてマーラーの3番に思うところは、ベートーヴェンの第九以上に(と言っては語弊もありましょうけれど)祝祭感というか、心現れるというか、我が身が再生する感じとでもいいましょうか、そういったものがあるなあということなのでありましたよ。

 

全くもって余談ながら、当該記事のタイトルにある「巨大な巨大な」は、ただただ福音館書店刊「こどものとも絵本」にある一冊、『きょだいなきょだいな』が思い浮かんでしまった…というだけのことでして…(笑)。