先日、FM放送でアリアーガという作曲家の曲が流れてきたのを耳にしたのですね。
ラ・リティラータという古楽グループによる弦楽四重奏曲だったですが、
いかにも古楽器らしい溌剌とした音色で若々しく疾走感溢れるメロディーが響いていました。


何でもアリアーガは「スペインのモーツァルト」とも言われるようでありまして、

二十歳を目前で亡くなってしまったとは、その楽曲に漲る若さが感じられるのも
むべなるかなではなかろうかと。


しかし、何分に短い生涯でありましたから、残された曲も少ないようで、
余り知られていないのも(個人的にも名前を聞いたことがある程度で…)致し方なし。


ですが、「スペインのモーツァルト」と言われるように
擬えられる側のモーツァルト はといえば、没後200年以上経った現在でも、
頻りに演奏され、CDも多く、おそらくはクラシック音楽に馴染みのない方にとっても
名前は知られているところではないですかね。


確かにモーツァルトは、アリアーガよりも長く生き、作った曲数も多い。
ですが、モーツァルトよりも長生きした作曲家は山のようにいますし、
曲数の方は必ずしも多ければいいというものでもないような。


「そりゃあ、モーツァルトは名曲を残したから」と言えないことはありませんが、
(確かに名曲であるということは、残り得るひとつの側面でもありましょうけれど)
世に「埋もれた名曲」というのも多々あるわけでして、そうした曲が積極的に掘り出され、
耳にすることができるようになったのは再生メディアがLPレコードからCDに代わって以来のこと。
(爆発的に売れないとしても生産するに見合うコストのダウンがあったのでしょうね)


ともすると、埋もれてしまっていたかもしれないモーツァルトを埋もれずに
現代にまで伝える「何かしら」があったのかどうか。


そうしたことに答えるひとつの側面を示してくれるのが、
講談社現代新書『モーツァルトを「造った」男』でありました。


モーツァルトを「造った」男─ケッヘルと同時代のウィーン (講談社現代新書)/講談社


ここでモーツァルトを「造った」男とは、
ルートヴィヒ・フォン・ケッヘル(1800-1877)のことなのでして、
コンサート・プログラムやCDでモーツァルトの曲を
「交響曲第40番ト短調K.550」てなふうに記したときの「K.」の部分、
これをケッヘルと読むことで、広い知名度を誇っているその人、
モーツァルトの作品目録を作った人でありますね。


読み始める前、ケッヘルとは音楽学者か何かなんだろうと思っていたですが、
これが実際のところ、本来の専門は博物学者に近いような。


取り分け植物学、鉱物学を中心に収集と分類、分析を行ったとなれば、
何となくモーツァルトのと言わず、何らかの作品目録の編纂には
打ってつけだったかもと思うところではあります。


で、ケッヘルの生きた当時、音楽の愉しみは「聴く」ことと「奏でる」ことが分化しておらず、
自らも楽器を演奏し、仲間の演奏に耳を傾け、また自分たちの作った曲を合奏しあっていた。


当時の音楽愛好家とはそんなふうであったようですが、
「愛好家」と「コレクション」は近い関係にあるわけでして、
音楽の愛好家となると、作曲家の自筆譜や初版を集めたりということもあった様子。


そこから、誰のためというよりは自分のためというのがそもそもになりましょうけれど、
例えばモーツァルト(の、自分が所蔵する)作品目録」なんつうのが
ケッヘル以前にも編まれたりもしたようです。


目的が自分用ですから、誰にとっても分かりやすいとかいうことを考える必要はなく、
自分が所蔵していないのは取り敢えず省いて…という目録ができあがりますが、
ケッヘルのはちと違う。


全作品を網羅して、しかも当時は少人数で演奏しやすいような編成へのアレンジが
作曲者の預かり知らぬところでなされた譜面が流布したりしていたのを排除し、
年代別に、そして曲のカテゴリー別に整理して並べていくという、
限りなく完全なものを目指していたようです。


これまでに作られてきた目録とは違う、そして非常に手の掛かる仕事に
ケッヘルが何故取り組むことになったのか。


もちろんケッヘル自身、モーツァルトの音楽が好きだったということ、
そしてモーツァルトを埋もれさせまいとする機運があったということはあるにしても、
どうしてもモーツァルトを持ちあげなければならない、時代の、国情の必要性があったのだとか。


オーストリア帝国では(小邦分立の)ドイツ語圏をどうまとめていくかという方向性の点で
周辺の非ドイツ語民族をも含めた(いかにもオーストリア帝国らしい)「大ドイツ主義」を掲げるも、
本来的にドイツ語話者の国の統合を図ろうという「小ドイツ主義」を標榜するプロイセンと対立、
普墺戦争(1866)に敗れて、オーストリアは統一ドイツの外に置かれてしまうわけですね。

こうしたことは長らく続いたオーストリア帝国の落日を一層鮮明にしていったことでしょう。


政治的主導権が発揮できない中、栄光を誇るためのひとつのよすがが文化的なところ。
ですが、リアルタイムで大流行していたのはヨハン・シュトラウスを筆頭とする
ダンス・ミュージックとあっては、帝国の威信を問うにはいささか軽佻浮薄かと。


近い年代のメンデルスゾーンシューマンブラームス などは皆、
小ドイツ側の国の人たちですし、遡ってベートーヴェン もしかり。


シューベルト はちと重みに欠けるでしょうから、
もそっと遡って(といって遡り過ぎても時代遅れの誹りは免れず)オーストリア生粋となれば、
こりゃあやっぱりモーツァルトにひと肌脱いでもらうしかないのではなかろうかと。


…と、かなり端折って紹介してきた(それでも長い)ですが、
「ケッヘルと同時代のウィーン」という副題がついているだけに
ウィーン 体制とビーダーマイヤー時代の関わりが説かれていたり、
思いもよらず興味深い内容の含まれた一冊でありましたですよ。