先週聴きに行ったジュリアード弦楽四重奏団の演奏会 では

ベートーヴェンばかりを持ち上げてモーツァルトをちと低きにおいてしまいましたけれど、

同じ所沢のホールで今度はモーツァルトばかりを聴いてきたのですね。


フィリップ・ヘレヴェッヘの指揮で、手兵であるコレギウム・ヴォカーレとシャンゼリゼ管弦楽団による

演奏会でありました。


ヘレヴェッヘ/シャンゼリゼ管&コレギウム・ヴォカーレ@所沢市民文化センター


まずはシャンゼリゼ管弦楽団のみの演奏でモーツァルトの「ジュピター」ですけれど、

ピリオド楽器独特の響きはモーツァルト当時の音色なのかもと思いつつも、

なぜその後に楽器に改良が加わっていったのかに思いを馳せる機会にもなったような。


バロックのみならず、学究的な観点からすればモーツァルトはもとよりその後のロマン派あたりでも

その当時に聴けた音というのは、今回のようなピリオド楽器(あるいはそのコピー)での演奏で聴ける

ものだったのでしょうけれど、楽器そのものがモダン・オケで使用されるものとは異なって

どうも演奏技術的にやっとの感がしないでもない。


ですが、翻って思いついたのですけれど、

モーツァルトの曲はよく「譜面づらは簡単」と言われるのがなぜなのか、

ようやく思い至ったような次第でありますよ。


要するに楽器の制約を勘案すれば(その時代でもヴィルトゥオーゾと言われる演奏家がいたにしても)

音楽をより楽しめるものとして聴かせるには、あまりに奇を衒うことなしに

モーツァルトがやったような曲作りであることは必然だったのかもと思うところです。

(ベートーヴェンになると、いささか過激に実験的になるようですが・・・)


ですから、モーツァルトの「ジュピター」を

モダン・オケの豊潤を極めた音色で聴いたことのある者からすると

やっぱりその後の楽器の音色がより艶やかになっていったことをついつい思ってしまうような。

もちろん、これはこれなのですけれど。


ところが、休憩後に演奏されたレクイエムになるとまた趣きを異にするようで。

今度はシャンゼリゼ管弦楽団に加えてコレギウム・ヴォカーレの合唱が入るわけですが、

これでこそ本領なのかなと思ったり。


ゲントの少年聖歌隊あがりのヘレヴェッヘが器楽オケに先駆けて作ったコレギウム・ヴォカーレ。

つまりは合唱が先んじてあるということになりましょうか。


4声部のソリストもいますけれど、メインはやはり合唱。

アンコールで演奏された、やはりモーツァルトの「アヴェ・ヴェルム・コルプス」を聴いて、

なおのことその印象は強まるといったふう。


決して大合唱ではないのですが、楽器としての人間の声の、何と圧倒的なことでしょう。

例えば「Rex tremendae」の「レックス!」とひと言迫るあたりは「おおお!」と思うわけです。


今さら言うまでもないですが、モーツァルトの「レクイエム」、名作でありますね。

キリスト教という宗教に基づく音楽でありながら、ラテン語の歌詞に精通していなければいないほど、

純音楽として聴いたときのパワーが感じられるところでもあろうかと。

本来的ではないにせよです。


何度も言ってますが、やっぱり自分の葬儀には何かしらの宗教という区分けは棚上げした上で

この曲を流してもらえるようきちんと遺言しておきたいものだなと、改めて思いましたですよ