と、「音色の弧線コース」を目指していながら音楽家関係ゆかりの場所にたどり着く前に
違った方面の記念碑にひっかかったりしてしまいましたですが、
本来のルートを巡るべくトラムの走る通りを渡りますと、ライプニッツ通りとありました。
ライプニッツもライプツィヒ・オールスターズのひとりでしたですね。
とまあ、そんなライプニッツ通りをずいずい進んで、交差するグスタフ・アドルフ通りに出ますと、
そこには「ああ、この人もライプツィヒに来てたのだね」という音楽家の住まったところにたどり着くという。
こちらの建物に、作曲家、というより当時は指揮者としての活動こそが主であり、収入減でもあったと思しき
グスタフ・マーラーが住まっていたということでして。1887年から1888年にかけてと、短い期間ですけれど。
プレートには「ここで最初の交響曲を書いた」とありますので、「おお、そうかそうか」と。
ではありますが、確かマーラーの交響曲第1番の成り立ちは決してスムーズではなかったのですよねえ。
しばらく演奏会が取り止め続きになってしまっている読響を最後に聴いたのが2月になりますけれど、
その際のプログラムがマーラーの交響曲第1番、そして後に削除された「花の章」もまた演奏されたのでして、
プログラムノートにはこんなふうに書かれてありました。
この〈花の章〉は、もともとは…交響曲第1番に組み込まれていたもので、現在の第1楽章と第2楽章の間に置かれていた。つまり、作曲家28歳のときにひとまず書かれたこの記念すべき最初の交響曲は、当初5楽章から成っていたのだ。
まあ、よく知られた話ではありますけれど、作曲家28歳のときといいますと、マーラーは1860年生まれですから、
ライプツィヒのプレートにある1888年にはその年齢ですので、その5楽章の曲が書かれたのは
なるほどあの住まいだったのでありましょう。
ですが、マーラーにとってライプツィヒでの仕事(必ずしも作曲ということでなくして)はあまり意に沿うものでなかったのか、
1888年にライプツィヒを去り、ブダペストに王立歌劇場の芸術監督に就任、この曲の初演もブダペストで行われることに。
初演に際して(そして、その後しばらく)この曲は「交響詩」として紹介された…ということも有名な話でしたので、
ライプツィヒの旧宅跡プレートに見た「最初の交響曲」とあったのにちとひっかかったですが、
マーラー自身は最初から一貫して「交響曲」として捉えていたのだそうですから、説明書きに偽り無しのようですな。
とまれ、ここで書かれたという最初の交響曲作品は、
1896年のベルリン公演以来、「花の章」は削除されて現在の形に落ち着くも、
作曲者自ら取り去ったはずの「巨人」というタイトルは今でも使われているのですなあ。
後世の人は何となくタイトルがついているのが好きなのでしょうね。
単に交響曲第何番とかだけ言われるよりとっつきやすいでしょうから。
と、例によってこれを書きながら、マーラーの交響曲第1番を聴いていますけれど、
以前にも少々ブルーノ・ワルターびいきを披歴いたしましたように、ここでも取り出したのはワルター盤。
といって、コロンビア響を振ったステレオ録音は初めて手にしたマーラーでしたので印象深いのですが、
今回は1939年に録音されたNBC響とのライブなのですね。
もちろん音質的にはかなり厳しく、大きめの音で再生すると耳にキンキンくる感じさえするものながら、
マーラーの直弟子ワルターのこのライブ、名盤とされるステレオ盤のきちんと整った感がちと整いすぎかもと思える、
そんな自由さがありまして、纏綿たる情緒がえもいわれぬようだなと個人的には思っているのでありますよ。
しみじみとライプツィヒの裏通りを思い出しながら、聴いていたのでありました。