朝の散歩は木立のある公園からライプツィヒ音楽軌道をたどる方向へと歩を進めたのですね。

例のにょろにょろとした歩道上のサインを見つけて、これに従っていきますと、こんなパサージュへと導かれました。

 

 

建物内の通路へと入ってみましたら、いやあ、そこにはライプツィヒゆかりの有名人を紹介する

展示コーナーとなっているのでありましたよ。名付けて「ライプツィヒ・オールスターズ」だそうで。

 

 

オールスターズとまで言われましても、やはり知ってる人、知らない人、交々ですけれど、

まずはマルティン・ルター、ライプツィヒとの関わりはもちろん「ライプツィヒ討論」でありますね。

「95カ条の論題」発表ののち、これに反論する神学者との論争に臨んだのがライプツィヒ討論でして、

ここでの主張をもとにローマ教皇はルターを破門とするも、この通達文書を公衆の面前で焼いてしまった…

とは、ヴィッテンベルクのところで触れましたですなあ。

 

ルターのお隣に登場するのがヒエロニムス・ロッターというライプツィヒ市長だった人物で、

建築家でもあったのでしょうか、ライプツィヒ旧市庁舎の再建やモーリッツバスタイの建設に関わったのだとか。

 

左下には(肖像が判別しにくいですが)メンデルスゾーンの登場です。まあ、これは言わずもがなでありましょう。

右側の窓にいって、結構おなじみの写真だと思いますが、ニーチェですね。

ライプツィヒ近郊の小村生まれなのだそうです。

 

お隣は、ライプツィヒ大学教授でノーベル化学賞を受けた化学者ヴィルヘルム・オストヴァルトとか。

「触媒の研究を行い、肥料や爆薬の大量生産を可能にした硝酸の製法であるオストヴァルト法を考案した」とは

Wikipediaにあることですが、この人がいたから火薬の大量消費が可能になってしまったのかもですなあ。

 

と、その下は中世の人ハインリヒ・フォン・モールンゲンで吟遊詩人、ドイツではミンネゼンガーですな。

ヴァルトブルクの歌合戦で知られるヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデらとともに、

有名な存在であったことはマネッセ写本に挿絵(写真にある絵ですな)が残されていることからも分かるようで。

 

ちなみに「マネッセ写本」は「中世盛期におけるドイツの代表的な140人の宮廷詩人(ミンネゼンガー)の

詩歌(愛の歌)を収録した大型の豪華彩飾写本ということでありますよ(Wikipedia)。

 

 

ライプツィヒ・オールスターズはさらに続きますが、今度はなんとエドヴァルド・グリーグ

ノルウェーの作曲家が何故?というあたりは別のところで触れることといたしまして、

そのお隣のザムエル・ハーネマンは先にふれたとおりにホメオパシーの創案者ですな。

 

左下は画家のマックス・クリンガーはライプツィヒの生まれ。

作品はライプツィヒ造形美術館でたぁんと見ることができますので、これも先に譲るとしまして、

右側上の写真はヴィルヘルム・リープクネヒトという人物でドイツ社会民主党の創立者の一人であると。

ローザ・ルクセンブルクとともに革命を志向したカール・リープクネヒトのお父さんだそうです。

 

そして、いささか古風な肖像画で紹介される右下の二人、ひとりはゴットホルト・エフライム・レッシング、

ライプツィヒ大学では医学と神学を学ぶも、もっぱら啓蒙主義の思想家として知られましょうか。

 

レッシングの言葉には名言として残るものも多く、例えば「全ての偉大な人々は謙虚である」とか。

さらに「芸術家は人がその作品を見て、その作家を忘れる時にのみ真に賞賛される」とか。

18世紀を生きたレッシングに今でも目を開かされることもあるようですよね。

 

でもって、右側の一番下の肖像はゴットホルト・ライプニッツ、数学者・哲学者として知られますが、

ほぼゲーテに100年先んじて、ゲーテ同様あらゆる分野に功績を残したオールマイティーな人だったのですなあ。

今に伝わるものとしては微分積分に使う記号の多くは「ライプニッツの記法」に負っているのだそうでありますよ。

そうそう、名前に「ライプ」とあって関わりあるのかもですが、ライプニッツはライプツィヒ出身ということで。

 

…と、ここまでのところで「ライプツィヒ・オールスターズ」の紹介は半分なのでして、

どうせですから、もう半分を次回触れることにいたしたく。