ということで、ライプツィヒの観光案内所のあたりから音楽軌道をたどってみることにしたわけですが、
結構ビルの建てこんだ狭い路地へと導かれていくのでありました。
ですので、いささか迷路のようでもあり、最初のうちは軌道上のポイントを見つけるのに少々難儀したり。
バッハが「コーヒー・カンタータ」を書いたのはこの店の飲み物が題材という「カフェ・バウム」には何とか到達しました。
バッハも出入りしたというからには相当な老舗になるわけで、記録にその名が出てくるのが1556年とか。
1711年からコーヒーを提供したそうですから、1723年にバッハがトーマス教会に赴任した頃には
当然にコーヒーが供されていたということでありましょう。
19世紀になりますとサロンとしての役割を果たし、シューマンが創刊した「新音楽時報」に関わって、
仲間たちが音楽談義に花を咲かせたのもここ、カフェバウムであったとか。
そして、「レクイエム」のライプツィヒ初演のために総譜を抱えてやってきたモーツァルトの妻コンスタンツェが泊まったとか、
ナポレオンやゲーテ、そしてショパンも泊まったことがあるというホテル跡はどうやら見出しかねたようで、
そうこうするうちに視界が開けてみれば、あらら、トーマス教会に出てしまった…。
J.S.バッハゆかりのトーマス教会にはもちろん立ち寄るつもりでしたですが、そのお話はちと後にして、
周辺をちとぶらぶらとしてみることに。もはや音楽軌道をたどるというよりはみ出してしまうわけですが。
まださほどに歩いてもいないながら、トーマス教会はすでに旧市街のはずれにありまして、
目の前をリングという大通りが通っている。かつては市を取り囲む城壁だったところでしょうかね。
ところで、トーマス教会のリング側入り口はなかなかに豪壮なものですが、メンデルゾーン門と呼ばれるようで。
「マタイ受難曲」を復活上演したりしたメンデルスゾーンならではのバッハとのゆかりということになりましょうか。
リング沿いに細く続く木立の中には、立派なメンデルスゾーン記念碑がありましたですよ。
同じ木立の中にはもちろんバッハの記念碑もありましたけれど、
ライプツィヒのバッハ像として有名な方はこれまた後で触れることにいたしまして、これは木陰にひっそりと。
地味に佇むバッハ記念碑でありました。
でもって、リングを越えて外側へと足を踏み入れてみますれば、
ちと趣の異なるモニュメントが目に飛び込んでくるのですなあ。住宅街で唐突にです。
「ホロコースト記念碑」と言われるこのオブジェ、1938年11月に
「組織化された反ユダヤ主義暴動がドイツ各地で発生した」(Wikipedia)ことは「クリスタル・ナハト」として知られますが、
このときライプツィヒもまた例外ではなくシナゴーグが焼き討ちされたそうなのですね。
ベルリンで見たホロコースト記念碑も、かなり考えさせるもので現代アートはかかるものでもあるかと思いましたけれど、
こちらもまた一見して分かった気になるものではない意味深さを湛えておるのではなかろうかと。
傍らの石碑には「Vergesse es nichit」(それを忘れるな)と刻まれているのもまた重い…。
あたりをふらっとしますと、有名なライプツィヒ音楽院を基とする学校の看板が目にとまりました。
今ではメンデルスゾーン音楽演劇大学となっておりますが、先に触れたクリスタル・ナハトの暴動では
メンデルスゾーンの像も襲撃されたとかいうことでして…。
と、またリング沿いの木立に戻ると、またひとつ銅像を発見しましたが、知らない人のようで。
台座には「Sam Hahnemann」とありまして、どうやらザムエル・ハーネマンというこの方、
ライプツィヒ大学で医学を学んだことでのゆかりのようですが、「ホメオパシー」の創始者として知られるそうな。
と、「ホメオパシー」という言葉はもちろん聞いたことがあるわけですが、しかしてその実体は?ですので、
Wikipediaにあたってみますと、「その病気や症状を起こしうる薬(や物)を使って、その病気や症状を治すことができる」と。
まあ、これをみても「まだなんのことやら?」ではありますけれど、ハーネマンによる1796年の提唱以来、
今でも賛否が真っ向対立しているということからすれば、なかなかの大物?とも言えるのかもしれませんですね。
ま、このように音楽軌道をたどる中では大きくはみ出したりもしながら、
さらにこののち、音楽家の足跡をめぐる町歩きは続くのでありました。