アマチュアの合唱団やオーケストラは巷に数々ありますけれど、
アマチュアであってオケと合唱団を併設している演奏団体はそうそうないのではなかろうかと。
両者を必要とする楽曲はあれこれありますから必要に応じて相互に頼るという形はあるにせよ、
両者を抱えていると、演奏会のたび、両者に花を持たせなくてはならんでしょうから、
何かと運営上も大変でありましょうなあ。
そんな団体のひとつである東京アカデミッシェカペレで知人が団員である関係から
お誘いあって演奏会@オーチャードホールに行ってきたのでありますよ。
このプログラミングでオケも合唱も相互に満足…かどうかは分かりませんですが、
このほどのプログラムはハイドン の「戦時のミサ(Paukenmesse)」、
R.シュトラウス 「ティル・オイレンシュピーゲル の愉快ないたずら」、
そしてベートーヴェン の交響曲第5番という3曲でありました。
演奏順もそのままなのですけれど、尺の点とオケ・合唱同時出演の点からも
ハイドンのミサ曲がメイン・プロになり得るところながら、「運命」を持ってきてしまっては…。
これは場所を譲らねばならんでしょうなあ。
しかし、だからといって前座的に1曲目ですかぁ?とも思いますが。
と、そうした楽団事情を詮索するのはともかくとして、ハイドンです。
ハイドンは104曲のシンフォニーを作って「交響曲の父」とも呼ばれたりする、
それだけに今日、演奏機会の多いはやはり交響曲、次いでは弦楽四重奏曲でしょうか。
ですが、ハイドンの書いたミサ曲、これがええのですなあ。
ハイドンは確かに交響曲をたくさん書きましたけれど、
最後の交響曲第104番「ロンドン」は1795年の作ですから、
ハイドンが没するまで未だ14年ほどあるのにその後に交響曲は書かなかったのですな。
晩年の境地を表そうとする音楽はミサ曲(とオラトリオ)と思いを定めたか、
6曲のミサ曲(と2曲のオラトリオ)を書くのでありますよ。
その中の一曲が今回演奏された「戦時のミサ」であったということで。
しかしまあ、「戦時のミサ」とは穏やかならぬタイトルです。
その辺りを演奏会のプログラム解説から引いてみるといたしましょう。
(1796年)当時、オーストリア領であった北イタリアにナポレオン軍が侵攻し、ウィーンでも義勇軍が組織されるようになっていた。オーストリアの平和を脅かすナポレオン軍に対して怒るハイドンは、作曲したハ長調のミサ曲に「戦時のミサ」というタイトルを記したのであった。
後にナポレオン はウィーンにも侵攻し、その軍勢押し寄せる最中にハイドンは亡くなった…とは、
以前ウィーンでの最後の日々を過ごしたハイドンハウスを訪ねたときに「そうか、そうか」と
思ったわけですが、ハイドンとしては安らかなる眠りを妨げられる思いでは無かったですかねえ。
「戦時のミサ」の後には、やがて「ネルソン・ミサ」と呼ばれるのが一般的になる
「不安な時代のミサ」なる一曲も作っていますし、
ナポレオン戦争の行方を気に掛けていたことでしょう。
そんな不穏の時代、そしてハイドンの晩年…それだけに晩年のミサ曲は
さぞや宗教的雰囲気に包まれてと思うところが、どうやらさにあらず。
晩年作の6曲を全て聴いたことがあるわけではありませんけれど、
改めて「戦時のミサ」を聴いても(別名「太鼓ミサ」と呼ばれるだけに)
ハイドンの好きな?ティンパニが活躍し、トランペット が鳴り響くさまには
大層勢いがあると言いますか。
元来、アマチュアとしては上手いものだと思っていた団体の演奏なだけに
ハイドンは交響曲や弦楽四重奏曲ばかりでなくしてミサ曲も忘れてはいけんねと
思ったのでありました。