「共感覚」という言葉がありますですね。
改めて辞書検索をしてみますと、このようにでてきます。
音を聞くと色が見えるというように、一つの刺激が、それによって本来起こる感覚だけでなく、他の領域の感覚をも引き起こすこと。(goo辞書>デジタル大辞泉・小学館)
カンディンスキー がピアノリサイタルに色を見て「印象Ⅲ(コンサート)」を描いたような、
逆にシベリウス がある絵に音を聴いて「ニ長調」と名付けていたような、
そうした感覚のことですけれど、特殊なことのようであって実は誰にでもあることかなとふと。
いわゆる「共感覚」の持ち主と言われる人たちは
その感覚が鋭敏であったり、繊細であったりするものの、それが他の人には無いということでなく
鋭いかやや鈍い?かだけの違いなのかもと思ったりしたのでありますよ(大きな違いか…?)。
こんなことにふと思い至ったきっかけは先日放送されたEテレのふたつの番組でありまして、
ひとつは「らららクラシック」でJ.S.バッハの「マタイ受難曲 」を取り上げていました。
もうひとつは「日曜美術館」、こちらは横山大観の特集でありましたね。
バッハの「マタイ受難曲」は絶大な人気を誇る作品である一方で、
非常に敷居が高い気がして、個人的にじっくり聴いてみましたのはつい近年のこと。
そのときには確かに「おお!」と思ったものですけれど、
番組にゲストで登場した加藤一二三九段がこの曲を好きでよく聴いているというものの、
作曲家・千住明の解説に「ふむふむ」と感心しておりましたくらいですから、
一度聴いたことのあるという程度の者には「なるほどな」というところでありました。
どうせなら千住さんに「謎解きマタイ受難曲」みたいな本を書いてほしいと思ったりしたですよ。
で、その解説に曰くですが、アリア「神よ、あわれみたまえ」(第39曲)を取り上げて
下行音形の連続するところは嘆き、悲しみが畳み掛けてくるさまであり、
その裏に配された単調なリズムは涙の滴りを表しているというのですな。
嘆き、悲しみは感情ですが、涙は目で見てこそ分かるもの。
それが頭の中に思い浮かぶようなイメージ喚起力がこのメロディーにはある…と言えますが、
反対にそうしたメロディーから一定のイメージを浮かべることが人はできるのですよね。
そんなふうに謎解きされなくても、何かしらの音楽でもって何かの映像が頭によぎることは
誰にもあることでしょうし。
一方、「日曜美術館」での横山大観ですけれど、
例えば滝が描かれた画面では水しぶきがこちらにまで掛かってくるようなと言えば
ストレートに絵の力と思うところながら、滝の水の落ち下る音が聞こえるようだとなれば、
別の感覚になりますよね。
やはり横山大観描くところの絵が、
あたかも音が聞こえると観る者が思ってしまうようなイメージ喚起力を持っていると言える反面、人はそう受け止めることができるということもできるわけです。
いずれの場合ももっぱら作者のすごい力量を紹介するためのものではありましょうけれど、
人にはそれを受け止めるだけの感覚(これをして共感覚とまでは言わずとも)が備わっており、
それを前提として、絵画でも音楽でも世界が広がるように作られているといいますか。
ただ、おそらくはこの感覚、磨けば磨くほど鋭敏にも繊細にもなっていくことでしょう。
誰しも備わっているであろうとしても、反対に何に気付くこともなく過ごしていってしまえば
衰えていってしまうものなのかもしれません。
つまりは、結果として人それぞれで備わっているような気がしたり、
そんなの無いと思ってしまうことになるのかもしれませんですね。
まあ、努力まではしなくていいとは思うものの、
年を経ても鈍ることのないようではいたいものでありますなあ。