楽器学資料館 を訪ねた国立音楽大学は西武線の玉川上水駅最寄りですので、
これもまた機会を見て覗いてみようと思っていた施設が武蔵村山市にあって、さほど遠からず。
そこで脚を伸ばして向かったのが、武蔵村山市立歴史民俗資料館分館でありました。
が、その施設の目の前に「手づくり郷土料理の店」との暖簾が見えたものですから、
頃もお昼どき、まずはこちらで腹ごしらえに及んだのでありますよ。
もしかしまあ、武蔵村山の郷土料理って?と思うところですが、
メニューによれば筆頭にくるのは「村山かてうどん」というものであるようす。
うどんだけでは足りないかなとかき揚げ付きで頼んでみますと、このように出てまいりました。
と、ここでそも「村山かてうどん」とは?ということで、
「村山うどんの会」というHPを覗いてみますれば、このように説明されておりました。
地粉(地元国産の小麦粉)を配合した冷たい麺を暖かい醤油味の魚介ダシのつけ汁に浸し“かて”と一緒にいただきます。…村山うどんに付いている「かて(糧)」とは茹でた季節の地場野菜などをうどんに添えたものです。 武蔵村山名産の小松菜やほうれん草、ナスなどが一般的です。
出されたときに「天ぷらの盛りがいいのぉ。かき揚げ以外にも付いてるし」と思ったですが、
いわゆる「かて」代わりの野菜の天ぷらにプラスかき揚げということだったのでしょう。
では、純正かてうどんを頼んだとしたら、天ぷらでない野菜が出てくるということだったのかも。
角度的に見えない位置にお客さんがもうひとりいたきりでしたので、
他のようすを窺うことはできませなんだ。
ところで、他のメニューとして「すいとん」もまた名物らしいふうでしたが、
このうどんを食したところ、即座にすいとんを思い浮かべたくらいに同じものなのかもです。
とまあ、差し当たりおなかを満たして向かうは武蔵村山市歴史民俗資料館分館。
住宅地の中に、全く住宅として溶け込んでしまう施設ですが、何故この場所に分館かといえば、あたり一帯がかつては「東京陸軍少年飛行兵学校」だったという歴史を持つところなのだそうで。
ですから、資料館分館にたどりつく途中のこれまた住宅地の中に、
突如として「陸軍少年飛行兵 揺籃の地」なる結構大きな碑が建てられていたりするという。
でもって、館内の展示も戦争関係に特化したものであるわけですけれど、
「東京陸軍少年飛行兵学校」なるものをちとおさらいしておくとしましょう。
東京・多摩地域にはたくさんの軍関係施設があったとは以前にも本で読んだことがありましたが、
今では昭和記念公園他に転用されている立川飛行場が建設されたのは大正11年(1922年)、
陸軍飛行第5連隊が配置されたのだそうです。
これを機に近隣である村山方面にも陸軍病院やら所沢陸軍整備学校立川教育隊やら、
そして陸軍陸軍少年飛行兵学校ができていったようで。
海軍では「予科練」に相当するのがこの学校で、15歳から17歳とは今の高校生くらいですね、
学生たちは1年間の基礎教育を受け、卒業後は適性に従って操縦・整備・通信とに分かれ、
熊谷・宇都宮・所沢・水戸の上級学校へ移ってさらに2年間を過ごしたといいます。
戦争終結までの卒業生は約46000名、そのうちの4500余人が戦死を遂げたということです。
展示の中には米軍が空襲を予告してばらまいたビラがありましたですが、
このようなことが書かれていました。
…アメリカの敵はあなた方ではありません。あなた方を戦争に引っ張り込んでゐる軍部こそ敵です。
当時としては日本国民の戦意を喪失させるための謀略ビラだとされたわけですけれど、
「国」を守らんという掛け声のもとに国民を、若者を、少年までを戦地に送りだしてしまう状況を
冷静に見つめ直す契機を与えたかもしれませんですね。
いつの世も物事を冷静に見て判断していくことを忘れてはなりませんね。
人は歴史に学ぶことができる一方で、残念ながら人の行いで「歴史は繰り返す」こともある。
それに思いを致せば、繰り返してはならないことに踏み出すようなことは無いはずなのですが…。
そんなことを思いつつ、帰途についたのでありました。