松島海岸で伊達仙台藩ゆかりの観瀾亭に立ち寄りましたところ、入場料200円は松島博物館という施設と共通になっておるとなれば、どれどれ?と博物館も覗いておくわけですな。

 

 

確かに玄関には松島博物館とありますが、どうやらこちらは開かずの扉であるようす。実際の入口は観瀾亭の裏手に廻ったところにあるようで。こちらになります。

 

 

入口を示す立て看板には「旧時代の書画、絵画、寛文初年の絵図面他等が陳列されております」と書かれていましたけれど、見るからに(こういってはなんですが)やる気なさそうな印象を醸し出しておりますなあ。が、ふるカフェ巡りのハルさんではありませんが、「博物館の印象はファーストコンタクトで決まるといっても過言ではない。いざ、まいる!と。

 

 

頭の中では当然に、BGMとしてバッハの無伴奏チェロ組曲第1番からクーラントが流れているわけですが(Eテレ『ふるカフェ系 ハルさんの休日』をご覧になったことがありませんと、何のことやらでしょう…)、一歩中へと入りますと思った以上の脱力系に「う~む」ともなりましたですよ(笑)。

 

 

ともあれ、展示の目玉のひとつと思しき品がこちら、谷文晁描くところの『松島真景図』かと。天明年間「当時の松島のようすがわかる貴重な資料ということで。あまりに長いものなので、ちと部分的にクローズアップしてみますかね。

 

 

中央には五大堂、その下の陸地部分には瑞巌寺が描かれていますので、まさに松島の船着き場のあたりがここに描かれておりますな。で、ここからずう~と海岸線を辿っていきますと、観光船に乗船した塩釜にまで至るという。

 

 

右下に境内が囲われた形で記されているのが鹽竈大明神、つまりは鹽竈神社ですのでね。「鳥瞰図という鳥の目線で描かれたもの」と解説されるも、どれだけ遠目の利く鳥であるか?と思ってしまいますな。あたかも吉田初三郎の名所案内を見る如しではなかろうかと。

 

一方で、正確さを求めた地図としてはこんなものも。測量技術に西洋式を取り入れたであろう明治16年(1883年)に製作されたという松島湾の海図になります。

 

 

松島湾は島が多く、しかも海苔の養殖が行われるような浅瀬もありますので、航行する船にとっては水深は重要な情報で、おそらく江戸期までは漁師の経験で航路の知識が積み重ねられたのでしょうけれど、詳細な地図に可視化されたというわけですな。

 

と、それにしてもこの松島博物館、展示物は相当に雑多な印象がありますですよ。なにせ、こんなのもあんなのもといった感じで。

 

 

例えば、縄文後期の土器が展示されているかと思えば、かつて東北本線が通っていたという幻の線路を紹介するパネルもあり、はたまた近所の学校の自由研究成果でもあるか?というような。

 

 

 

観瀾亭に付随する博物館なだけに、どうしても伊達家に関わる歴史的資料があるものと予想してしまうわけですが、「松島」を伝えていくには現在の状況を知らせることも忘れてはならない。漁業が盛んな地域だけにアマモ、魚たちの産卵場所となり、水質の浄化にも役立つという「アマモ場」を回復させる取り組みが続けられているといったあたり、松島の現在の話題ということでありましょう。

 

 

ということで、極めて大雑把ながら松島博物館の展示を見てきました。最後には展示室の奥にあったビデオ上映を見ていたですが、これは日本遺産に認定されている「政宗が育んだ”伊達”な文化」の紹介でありましたよ。

…(政宗は)伊達家で育まれた伝統的な文化を土台に、上方の桃山文化の影響を受けた豪華絢爛、政宗の個性ともいうべき意表を突く粋な斬新さ、さらには海外の文化に触発された国際性、といった時代の息吹を汲み取りながら、これまでにない新しい“伊達”な文化を仙台の地に華開かせていった。

こんなふうに「日本遺産ポータルサイト」にありますとおり、絢爛さが強調されるところ(瑞巌寺の障壁画とか)ですけれど、政宗はじめ代々の藩主は領内の観光プロデューサーでもあったような。瑞巌寺、松島、鹽竈神社、多賀城、そして古来歌枕とされてきた数々のスポットの紹介に努めたようでもありますし。ま、そうした視点は他の東北諸大名には無かったでしょう。そんなこともあって、仙台は東北随一の都市になってもいったのでしょうかね(といって、今回は仙台をかすった程度でしたけれど)。

先日『武田勝頼-日本に隠れなき弓取』展@山梨県立博物館のことを書きましたときに、長篠合戦後に勝頼が採った戦略として自らの陣営を立て直す中、「安芸毛利氏・伊予河野氏とも同盟」てなことにさらりと触れましたですな。ですが、安芸の毛利に見当はついても、伊予の河野には「はて?」と。そんなふうに思っていた矢先だけに、その伊予河野氏を扱った歴史小説を手に取ってみた次第。今村翔吾『海を破る者』という一冊でありますよ。

 

 

伊予河野氏を扱うとはいうものの、武田勝頼と盟約を結ぶといった戦国の世からは遥かに昔の鎌倉時代、折しも元寇の脅威にさらされていた頃のお話なのですな、本書は。四国は伊予の地に古くからある豪族という河野氏、どうやら西国の地にありながらも源平合戦では早くから源氏に与したことで、鎌倉幕府の当初は有力御家人の地位にあったそうな。

 

ですが、承久の乱で反幕府勢力に肩入れしたことから没落、その後には同族内の争いが絶えず、本書の主人公・河野六郎通有の時代に些かの復権はあるものの、断続的に内紛が起こってしまったようで。家運を盛り立てるに至らず…となれば、勝頼にとって恃むに足る相手ではもはやなかったのかも。

 

しばらく前に読んだ和田竜『村上海賊の娘』は、織田信長の本願寺攻めに関わる村上水軍の話でしたけれど、村上水軍自体、古くは伊予河野氏の傘下にあったところが、すでに本願寺攻めの時代、村上水軍の大勢は毛利の側に傾いて、「河野には昔の恩義はあるけれど…」的な存在になっておったような。戦国時代として思い浮かぶあれこれの局面でも、およそ河野の名前が挙がることは無く、従って「伊予河野?はて?」てなふうになってしまったもおるのでありましょうね。

 

ともあれ、物語は元寇の再来、弘安の役に水軍を率いて臨む六郎通有を主人公に、河野復権につながる働きを語るのでして、上の画像にも見える「日本史上最大の危機である元寇、没落御家人が御家復興のために立つ」という勇ましい文言からも、元寇を描いた物語と映ろうかと思いますが、実は元寇を描いて元寇の話では無いとも言えようかと。肝心なのは先の惹句の下に添えられた「なぜ人と人は争わなければならないのか?」でありましょう。

 

元寇という以上に、河野通有を扱ったこのお話、元々情報量の少ない(?)河野氏だけに、作者の想像による大々的な虚構で成り立っているものと思いますが、歴史の中の大事件などはまさにその時にどういう
ことが起こったのか…といったことを語る歴史小説の枠をはみ出すものになってもいるような。確かにベースは元寇を背景とはしているものの。

 

「なぜ人と人は争わなければならないのか?」

今でこそかかる疑問は誰しも考えるものでしょうけれど、これを直ちに歴史叙述の中に織り込むのは現代感覚以外のなにものでもないのでしょうねえ。鎌倉時代に生きていた武士たちが同じような感覚を抱くということを自然に受け止めるとすれば、歴史を見誤ることにもなろうかと。

 

あたかも先年の大河ドラマ『どうする家康』で築山殿が大和平構想を展開するあたりを思い出したりしましたけれど、これも定説的に信じられていることがあるだけに大きな戸惑いが起こったわけながら、伊予河野にはそうした予備知識がおよそない分、自由に話を作れたのでもありましょう。

 

ネタバレを避けるとすれば、「元軍はなぜ攻めてくるのか」、「高麗はなぜ元軍に加担せねばならないのか」、「日本はなぜこれを迎え撃つということにならざるをえないのか」、そうした思いを主人公の通有が抱いて従来に臨む、またそんな思いを抱くことになったそれまでを描いているとだけは言えましょうか。

 

要するに、極めて素朴に言ってしまうと「なぜ皆、仲良く暮らせないのであるか」というところになってしまって、いつの世も世の中そんなに単純でも簡単でもないとなってしまいましょうか。それにしても、この「なぜ」を忘れてはいけんですよねえ。

 

通有が「なぜ」を形成する背景には、モンゴル帝国拡大の犠牲となった地域で奴隷として売り買いを繰り返されて日本の伊予に流れ着き、通有に拾われる二人の人物が大きく関わりますけれど、そのうちのひとりがいわゆる「タタールのくびき」の犠牲者たるルーシ人なのですよね。

 

当時のルーシはウクライナもロシアも含んでいたわけですが、そんな地域が今では敵味方に分かれて戦闘が繰り返されている。やはり「なぜ」の疑問は普遍的なものでありますよね。

 

この小説の初出は『別冊文藝春秋』への連載で、2020年3月号から始まったそうですから、ロシアがウクライナに全面的な侵攻を開始する以前ですけれど、戦闘が止まない今読んで考えるところの多いものとなっているのは奇縁ともいえましょうか。

 

鎌倉時代、河野氏、元寇という歴史的な切り口で読めるものとなっている(主人公・通有と『蒙古襲来絵詞』を作らせたことで知られる竹崎季長の絡みとか、河野一族であるという一遍上人との)一方で、それを背景にして本当に語りたかったのはやはり「なぜ」の部分、歴史物語の衣でもって語るのは過去ばかりでないということになりましょうね。

お休みを一日頂戴いたしましたが、例によって何事もなかったように話の続きを…。

 

どうも伊達政宗色の強い瑞巌寺を後にして、近くにあります円通院と天麟院は通りすがり程度に。

 

 

 

円通院の方は政宗の孫(忠宗の子)である光宗(19歳で夭折)の霊廟として建てられて、今では苔寺としても知られておるとか。また、天麟院は三春城主の田村氏から輿入れした正室・愛姫(めごひめ)と政宗の間に生まれた五郎八姫(いろはひめ)の墓所であると。

 

昔の大河ドラマで見たときに「五郎八」とは読みは優しいにしてもおっさんっぽいなと思ったりしたですが、天麟院前の説明書きに曰く「母正室愛姫が生まれた女の子に男名をつけると次は男子が生まれるといういわれから五郎八姫と名づけたという」とありましたな。

 

全くの余談ながら、大河ドラマ『独眼竜政宗』では愛姫を桜田淳子が、五郎八姫を後藤久美子が…なんつうふうに思い込んでおりましたが、ゴクミは愛姫の少女時代であって、五郎八姫役だったのは沢口靖子でありましたか。こんな折りでもないと思い込みが上書き修正されないままでしたでしょう…。

 

という歴史ゆかりの場ではありますが、これをさらっと過ぎて向かったのは観瀾亭というところ。松島という場所柄らしくもそっと景観を愛でようかという思惑でありました。

 

藩主の納涼観月の亭として初めは「月見御殿」といわれており、「観瀾亭」は五代藩主吉村の命名です。中秋の名月の頃は「お月見の会」が催されるので、風流に浸るののも一興です。(松島観光協会HP)

海にちょいと突き出た小さな岬の上といった場所にあるようで、海を眺めるに良し、月見に良しであると。建物の由来は伏見桃山城にあったものとは、なかなかの来歴ではありませんか。

「観瀾」とは、さざ波を観るという意味です。観瀾亭は、もともと豊臣秀吉の伏見桃山城にあった茶室を政宗がもらい受けて江戸の藩邸に移築していたものを二代藩主忠宗が1本1石も変えぬようにと命じ、海路ここに移したと伝えられています。(松島観光協会HP)

 

金箔をふんだんに用いた「御座の間」はいかにも桃山文化ゆかりと思うところながら、建物は伏見から移築されるもさすがに絵の方は瑞巌寺障壁画を描いた狩野左京作と伝わるようで。瑞巌寺はともかく、こちらのお殿様遊興の場には至って馴染むものですな。伊達好みは桃山文化と近しいような気もしたものです。

 

さすがに「御座の間」には立ち入れないですが、海の景観を目の前にできる広間の方では上がって抹茶を喫することができまして、束の間のお殿様気分といいましょうかね。

 

 

 

松島の多島海らしいところというよりは多船海という状態になっているのが目に飛び込んできますが、まあ、確かにのんびりできることは間違いないところではありました。

先日ミューザ川崎へ出かけたついでに立ち寄った東海道かわさき宿交流館の、さらについでとしましては毎度のごとく川崎浮世絵ギャラリーも覗いたのでありますよ。開催中であったのは「新版画—風景画の変遷 松亭・巴水・紫浪・光逸・江逸」という展覧会でありました。

 

 

立ち寄る「ついで」の順位が後回しだったのは、確か同じ会場で比較的近い時期に新版画の展覧会を見たよなあと思ったからでして。振り返ってみれば、やはり昨2024年1月に「新版画の沁みる風景―川瀬巴水から笠松紫浪まで」と、類似性の高い展示を見ておりましたですよ。

 

そのときには、新版画の成り立ちに始まりから見ていって、今をときめく?!巴水の画面に大いに惹かれるところがあったわけですが、状況が変わるとというか、時間が経ってみるとというか、感じ方、受け止め方も変わるものは不思議というべきか、当然というべきなのか…。

 

今回の展示でも、明治になって台頭した石版画、銅版画、写真術に押されて江戸期以来の木版技術が衰退することを憂えた版元の渡邊庄三郎が、絵師、彫師、摺師、そして版元の四業協業の「新版画」を提唱するところから展示解説は始まります。その動きに高橋松亭、橋口五葉、伊東深水といった画家たちが呼応するわけですが、五葉は書籍の装幀などで知られ、深水は言わずとしてた美人画で有名、一方で松亭は?と思えば、松本楓湖の弟子であると。

 

つい先日に山梨県立博物館で見かけた恵林寺所蔵の「武田勝頼像」を描いたのが松本楓湖だったもので、武将の図像などを多く描いているだけに弟子の松亭はずいぶんと違う方向に舵を切ったものであるなと思ったり。

 

ともあれ、その後にようよう川瀬巴水らの登場で「新版画」は活況を呈していくわけですが、松亭の展示作が明治末から大正期に、そして巴水の作品が昭和初期に制作されたところからしても、江戸の浮世絵と新版画との間にはもうひと段階あったということになりましょう。代表的なのは「光線画」で知られる小林清親とか。

 

こうした流れに思いを至しつつ、参考として出展されていた歌川広重の保永堂版「東海道五拾三次之内 蒲原 夜之雪」と小林清親の数作、さらにその後の新版画作品とを順々に見ていきますと、光による明暗やら色遣いやら、洋画を知らなかった頃には戻れないという状況があったろうなあと思うところです。

 

描写自体もよりリアルになっていって、それが開化後の新しさを表すものとなってもおりましょうが、そうではないところにある情緒感という点で、江戸期の作品には余白があったようなと感じたりもしたものです。

 

そんな思いが湧いてきてみますと、前回展で「おお!」と思った巴水の作品から妙にかっちりくっきりした印象が起こってしまいまして、むしろ広重の蒲原にしみじみ見入ってしまったりしたものでありますよ。

 

展覧会フライヤーの右下に配された石渡江逸(やはり昭和初期に活躍)の「生麦の夕」でも、かっちり感の印象は伝わるところであろうかと。ただ、これはこれでおそらくその後のイラストなどの描かれ方にも大いに影響を与えていったろうなあと思ったものなのでありました。

 


 

てなところで、例によって父親の通院介助に出向きますので、明日(4/15)はお休みを頂戴いたします。では、また明後日(4/16)に。

宮城・松島の瑞巌寺を訪ねて寄り道話ばかり続きましたが、さてようやっと本堂へ足を踏み入れることに。青龍殿(宝物館)の向かいにあります庫裡(この建物自体が国宝であると)が本堂拝観の入口となっておりますよ。

 

 

中に入りますと、「当初、玄関内にあった竈は撤去されている」ということで、すっかり本堂への上がりかまちとして実用化されておるようですな。で、本堂の方ですが、「金地濃彩で描く大小161画の襖絵障壁画は、仙台藩お抱え絵師となった狩野左京、また長谷川等胤の作です」と説明板にあるとおり、「絢爛たる”伊達”な文化の世界を体現して」国宝となっているも、誠に残念ながら僅かな一部を除いて撮影不可なのでありますよ。

 

で、堂内を巡りながら目にする絢爛豪華な襖絵の数々、これに「ほお~!」と唸ってしまい…となれば、至って普通の感想とはなるのでしょうけれど、個人的にはどうにももやもやとしたものが湧き起こってしまいまして。「ここって、禅寺なのだよねぇ…」と。

 

後付けにはなりますが、「座禅.com」というサイトにはこのような記述があるのを見かけたのですな。

禅宗の思想では、無駄なものを排除して本質をとらえようとしますが、この考え方は、水墨画の簡素な表現にも通じるものがあります。

仏教のことにはおよそ詳しくない者ながら、「水墨画の簡素な表現」とは次元の異なる煌びやかな障壁画が次々と立ち現れるようすに戸惑いというか、違和感というか、そんなものを感じたものでありまして。ですので、そんな目眩まし感から逃れるように本堂の外の景色や庭のようすに目を向けたりして、些か心を落ち着かせたといいましょうか。

 

 

 

 

知らないだけで、他の禅宗寺院にもあれこれの豪華絢爛はあるのかもしれませんけれど、禅宗に教えに勝伊達好みでもあったのであるか…と思ったりしたものです。外側から見る本堂の姿は、なかなかに質実剛健な印象を醸す建築になっておりますのにね。

 

 

とまれ、妙なこだわり?から「ほお!」とはならなかった本堂拝観を終えて立ち去り際、入口近く、受付所の向かいにある法身窟とやらで足を止めることに。瑞巌寺が伊達文化に染められる遥か以前からある岩窟のようで。

 

鎌倉時代中期(一三世紀半ば)、諸国行脚中の北条時頼が、後に臨済宗円福寺の開山となる法身性西(法身性才 俗に真壁平四郎)と出会った場所と伝えられている。正安二年(一三〇〇)京都嵯峨天龍寺開山の夢窓国師がここを訪れた時、無人の窟内から天台止観を講ずる声が聞こえたという。窟内には時頼の法名碑・当山中興雲居国師行状碑・三陸海嘯供養碑等が所せましと納められている。

ちなみに(有料拝観エリアを出て)法身窟から右手に回り込んだところには、芭蕉碑が建てられてありましたが、これは句碑ということではないようで。毎年秋に開催されるという「松島芭蕉祭並びに全国俳句大会」という行事が1974年に20周年を迎えた記念碑なんだそうで。なぁんだ…(笑)。