毎年毎年のことですけれど、いろんな周年事業があるものですなあ。今年2024年は多摩ニュータウンに鉄道が通うにようになって50年ということで、多摩センターにあるパルテノン多摩ミュージアムで開催中の企画展「鉄道が街にやって来た~多摩ニュータウン鉄道開通50周年~」を覗いてきたのでありますよ。

 

 

鉄道開通50周年…となれば、多摩ニュータウンそのものが半世紀経ったのであるかなとどうやらそうではないようす。広いエリアにまたがるニュータウンなだけに全体の完成には長い年月を要するわけですが、第一次入居として永山地区(駅でいうと多摩センターよりひとつ都心寄りの永山駅)への入居が開始されたのは、1971年(昭和46年)であると。つまり、開発前は(ジブリの『平成狸合戦ぽんぽこ』で見るように)山林や農地ばかりであったところですので、極めて交通の不便なところへ、鉄道もないままに入居が始まったのであったとは。

 

 

よく越してきたなあと思ったりしますですが、実際には大規模な住宅の開発構想以前から、八王子南部や町田・相模原方面では東京都心部へ直結する鉄道の誘致がすでに始まっていたのだとか。これにちょいと乗りかけたのが京王電鉄であったようで。1960年に工事の始まった城山ダムによって出来る津久井湖をレジャースポットとして観光路線とすることを考えていたようですな。

 

そんなところへ日本住宅公団による開発実現の動きが見えたことで、京王のみならず小田急電鉄もまた多摩ニュータウンを経由して相模原方面に延伸する新鮮の免許申請を行ったと。流れからすれば、住宅が完成する頃には鉄道で都心へ通勤できるようになるだろうと、入居を考える人たちは受け止めていたのかもしれませんですねえ。

 

と、ここで京王と小田急が免許申請と言いましたですが、確かにこの2社は(路線計画に紆余曲折はあるものの)現在、多摩ニュータウンと都心部を直通している一方で、実は同時期に西武鉄道も新路線の免許申請をしていたとは知りませなんだ。

 

 

西武鉄道といえば、もっぱらJR中央線の北側を走る路線と思うところですけれど、西武には武蔵境駅から南西に分岐する多摩川線というのがありますな。多摩川の河原に位置する是政駅までの盲腸線になっているわけですが、これが多摩川を越えて多摩ニュータウンに乗り入れ、中央線との相互乗り入れによって都心部直結を目論んでいたようで。

 

結局のところ、南多摩地区輸送計画調査委員会なるところが「中央線の負担が大きいと結論づけ」たことから西武は断念したようですが、これが叶っていたらば、中央線の混雑度はとんでもないことになっていたでしょうなあ。それにしても、多摩川に突き当たってお終いという路線の残念感の裏に、そんな画策もあったということなのですなあなのですなあ。

 

ところで、入居が開始されても鉄道路線が確保されず、入居する都心への通勤者はさぞ困ったことでしょう。京王によって、当初は聖蹟桜ヶ丘駅までのバス路線が運行されたということながら、時間がかかる、渋滞する、終バスが早すぎるなどなど、いろいろ問題を抱えていたようです。それにしても、かほどに路線延伸がスムーズに進まなかったのは、阪急の小林一三が始めた?沿線開発の常とは異なる事情によるようですね。展示解説では、長くなりますがこのように。

なぜ入居開始に鉄道開通が間に合わなかったのでしょうか。それにはいくつかの理由があります。私鉄は通常、沿線で宅地開発を行うことで沿線人口を増やし、収益をあげていましたが、多摩ニュータウンは日本住宅公団(公団、現UR都市機構)など公的機関が開発をするため、私鉄は不動産の収益が得られません。また、多摩ニュータウン開発は徐々におこなわれるため、特にはじめのうちは人口が少なく、鉄道会社は思い切った先行投資をする必要がありました。このように鉄道会社の負担が大きく、なかなか建設をはじめられなかったのが間に合わなかった主な理由です。

とまれ、割りを食ったのは早い段階で引っ越してきた人たちということに。開発を誘致した地元行政も見るに見かねてか、鉄道乗り入れの実現などを含む条件を提示し、これが叶わぬうちは継続開発を中止するよう求めたといいますから、置き去りにされていた死活問題であったといえそうですね。

 

そんなトラブル含みの開発だったわけですが、永山地区への第一次入居開始から3年余り、ようやっと「鉄道が街にやってきた」のですなあ。それが現在の京王相模原線と小田急多摩線でして、これに後から中央線の立川とを結んで南北の行き来を確保する多摩都市モノレールが加わって、(永山駅の一つ先の)多摩センター駅は交通の要衝ともなったのですなあ。さりながら、開発開始から半世紀、どこの団地にも見られる高齢化が多摩ニュータウンにも到来しておりましょうね。

 

年月の経過と老齢化、さらにコロナの影響が重なったか、丘陵地の斜面を活かして多摩センター駅からパルテノン多摩(公共の複合施設ですな)へと緩やかに続く坂道の両側には大規模商業施設が連なり(左手ちょいと奥にはサンリオピューロランドも)「人工的な新しい街」感を醸していたところが、随所にうらぶれ感というほころびが目立つようにもなっていようかと。

 

ついでに言いますと、そも京王や小田急が目論んだ更なる延伸も棚上げといいますか。京王線の方は取り敢えずJR横浜線の橋本駅と繋がったことで面目を果たしてます(津久井湖のレジャースポット化は諦めたようす)が、小田急線の方は多摩センターの先に唐木田という駅ができたものの盲腸線状態となっていて、相変わらず小田急線の延伸を相模原市界隈では熱望していることは、以前垣間見る機会があったとおりでして。小田急としては、もはや終わった話なのでしょうけれど。

 

こうした展示を眺めてきてしみじみと思いますことは、何十年もの先を見据えた将来像を描くというのが実に難しいことであるなあと。住宅開発と歩調を合わせるように、都心部にあったいくつもの大学が広大なキャンパスを学びの場とすべく、このエリアに移転してきたりしましたけれど、これも徐々に都心回帰の傾向にもありますしねえ…。これからまた何十年も先には、一旦は住処を奪われたぽんぽこたちにとって再び安住の地になる…てなことがあるのかないのか。そんなことまで考えてしまいましたですよ。