このところ、セネガル出身の作家による小説を読んだり、ジンバブエから南アに逃れてソムリエになった人たちを扱ったドキュメンタリー映画を見たりしていた折も折、手にした池澤夏樹の『ノイエ・ハイマート』は難民に目を注いだ作品であったのですなあ。
ただ、ここでは本の帯に「シリアで、クロアチアで、アフガニスタンで、満州で」とありますようにアフリカを取り上げてはいないものの、難民の生じる状況は今でもあちこちで続いているところながらも、それらを網羅的に扱うのが主眼ではないので、それはそれとして。
で、先に読んだ本、先に見た映画のところではついつい「民族自決」などという言葉を漏らしてしまいましたですが、一見「良いもの」と受け取れるものがその実は…というあたり、本書でも触れているところがありましたですねえ。ちと長いですが、「14 カフェ・エンゲルベッケンでハムザ・フェラダーが語ったこと」の章にはこのように。
…しかし、本当に民族と国家は違うカテゴリーに属するのだろうか。一つの民族がおのれのありように枠を与えたいと思った時、その理想は自分たちだけの国家なのではないか。民族自決とは自分たちだけの国を作ること。それが理想だとしても実現はむずかしい。民族の数は多く、(居住地の)モザイクはいくらでも細分される。それならば多民族の融和を標榜してなんとか平等を実現するべく努力する方がいい。民族という概念の排他性の問題。…
民族自決が理想だとしても実現は難しい。それならばと考え至る多民族の融和が、実はこれまた難しいわけで。現在でも中東やアフリカなどのあちらこちらで、多民族共存は紛争の種となってしまっていますし、本書で扱われるところでは(ちと歴史を遡ることになりますが)「五族協和」を謳い文句に掲げた満州国の実際なども、五族の上に立つ権力が暗黙の了解とされていたことが災いのもとですし。
もっとも、このスローガンに真を置いて満州へ渡った日本人もいたでしょうけれど、結果的に彼らもまた敗戦によっていわゆる難民となってしまう。関東軍はとっとと逃げた…という事態を、全く飲み込めないままに…。
ところで、満州から日本へ帰国する苦難とは別に、一般に難民といえば、本当ならば自らの故郷(ドイツ語でハイマート)で暮らしていけるはずの人たちが何らかの理由でそれが叶わず、他国に身を寄せることを思い浮かべる。そこで本書タイトルにある「ノイエ・ハイマート」(新しい故郷)が出てくるわけですが、それに関わって「13 ノイエ・ハイマート」の章にはこんな語り交わしが出てきましたなあ。
「思うんだが、ノイエ・ハイマートって、それ自体が矛盾ではないのかな。新しい故郷って」
「もちろんそうよ。それはわかっている。故郷というのは先祖代々で古いはずのもの。長い歴史があるはずのもの。それが新しいというのはおかしいわ。でもね、それを承知で新しい故郷を作らなければならない場合もある。そういう事態が迫っていることがある。そういう人たちに手を貸すという義務も生じる」
そもそも「故郷」とは?ということに対する一般的理解を示してもいるのでしょうけれど、「先祖代々で古いはずのもの」、「長い歴史があるはずのもの」という故郷観は、個人的にはどうも付いていきにくい(否定しているのではなくして)。そういう故郷があるという意識が自分には無いものですのでね。
ただ、故郷を国という(大きな?)単位で考えるならば、日本以外に住んだことはありませんから、それが故郷じゃないかと言われればそれまでですが。
このあたり、自分のことはもとよりとして、日本人の間では(島国であることもあって)国境という意識に乏しいことが関わってもいるのであるかと思わないではない。もちろん海の上にも国境線はありましょうけれど、陸続きですぐ向うは別の国ということは無いわけで(在留米軍基地の敷地などは別でしょうけれどね。近くでいえば横田基地とか)。
そんなことの先に、日本での(みんながみんなでないことはもちろんあがら)難民理解の乏しさに繋がってくるのかもしれません。難民理解というのは、世界中で実際に難民が生じているということの理解と、難民となってしまっている人たちの状況を知り、彼らの思いに寄りそうような点での理解と両方において。
ですので、何とかかんとかトルコを経由してギリシアにたどり着いたシリア難民に対して、ギリシアの難民支援団体の人が語る言葉にはどきっとしたりも。「08 ジャーニー」の章です。
ギリシャは貧しい国です。国ぜんたいが債務不履行に陥りそうになったこともありました。街路の掃除だってできていない。それでもたくさんの人が難民のためのボランティア活動に参加しています。私はそれをとても誇らしく思います。
これに対して、日本は?…てなことを考えてしまうわけでして。税関の対応やらヘイト的な運動やらのことを思い返すにつけ。ただ、上に引いたように語ったその人がもう少し後のところで、こんなことも言っておりまして、背景としてはそんなことでもあったかといいますか、些かご利益的であるなと思えたりといいますか、それでもあっても無関心で過ぎるよりはいいのであるかなと考えたりといいますか。
『聖書』には「旅人の接待を忘るな。ある人これにより知らずして御使いを宿したり」という言葉があります。あなたたちは天使かもしれない。私たちはこうして奉仕することで主に貸しを作っているのです。いつか主が多くの利子をつけて返してくださるから。
まあ、日本にも「情けは人の為ならず」ということわざがあって、このこと自体をご利益的とまで見ることはなかろうと思いますので、ことさらキリスト教という宗教絡みだからといってご利益的と考えたのは狭量だったかも。人に対するありようとしてどうであるかと考えれば、無関心よりずっとましということにはなりましょうかね。
と、本書を読み終えたところであれこれ思い巡らせたわけですが、肝心な本書の内容、それは版元・新潮社の同書紹介ページを参照していただくことにいたしましょうか。