先月にEテレ『100分de名著』で村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』が取り上げられたのを見ていたせいでもありましょうか、唐突に人がいなくなる…という点だけ取っても「もしかして影響を受けている?」と思ってしまった小説をようやっと読み終えたのでありますよ。セネガル出身の作家モアメド・ムブガル・サールの『人類の深奥に秘められた記憶』という一冊です。
著者同様にセネガル出身でパリ在住の若手作家ジェガーヌが、遥か昔の 1938年にセンセーショナルなデビューを飾るも毀誉褒貶の挙句に失踪してしまった(やはり)同郷の作家T・C・エリマンの後を追っていくというお話なんですが、実にスケールの大きな(といって単に壮大というでなく、重層的なという意味で)作品でしたなあ。
でもって、久しぶりに小説らしい小説を読んだ気にもなりました。このところは比較的読みやすいものばかり読んでいて、ま、読みにくいのが「小説らしい小説」だと思っているわけではないものの、ストーリーの面白さだけに寄りかからない、叙述上の創意工夫とでも言いましょうかね。
そのあたりが読み手を戸惑わせはするところながらも、破綻寸前の均衡を保っているとでもいいますか。巻末に付された訳者による解説の中では、こんなふうに記されてもいて。
…作品自体はジェガーヌの言葉よりも、さまざまな他人の言葉を紡ぎ合わせることで成り立っている。…一人の語りのうちに別の人間の語りが混じり、ナレーションが複数化して、分岐しながらつながっていくのも本書の特徴だ。だれが語っているのか不分明になる瞬間もあるが、その宙吊り感覚がいっそう話の興趣を増している。
「ああ、文学だなあ」と思ったりもしたものでありますよ。だからこそのゴンクール賞(フランスの芥川賞?対象は必ずしも新人ではないでしょうけれど、本書の著者は同賞史上二番目の若さだったとか)受賞作なのかもですが、ただこの賞は前提として「フランス語で書かれた作品」が対象であると。
作者の出身地セネガルは、パリダカ・ラリーのゴールになるダカールを首都として西アフリカに位置していますけれど、長らくフランスの植民地であったわけですが、独立後もフランス語を公用語としているそうですので、セネガルの人がフランス語で小説を書いても不思議でないとは言えるのでしょう。
そうではあっても、やはりセネガルの人たちは地域地域の言語があるそうな。それだけに、フランス語を自由に操れる、さらにはフランス語でもって「文学」を生み出すとなってきますと、これまたやはり『100分de名著』でしばらく前にたフランツ・ファノン『黒い皮膚・白い仮面』を思い出してしまったりも。ファノンはカリブ海のマルティニーク(今でもフランスの海外県)の出身で、アフリカではないものの。
ファノンとの直接的な関わりを指摘するではないながら、やはり本書解説にはこうした一文がありましたですよ。
…フランス語による教育を授けられて、社会的上昇を目指せば目指すほど、彼らは白人への同化を余儀なくされるばかりか、それを自ら進んで求めるようになる。いわば呪縛のメカニズムによって、「自分たちの文化を支配し虐待した文化」を崇め、「自分たちを破壊するものになりたいという欲望」に取りつかれるのだ。
ただ、こうしたところを(他人事ではありながらも)危ぶむ気持ちというのは時代を経て、も少し大らかに見ることもできるのか、本書の若い作者(1990年生まれ)は「自分にとっての母語はセレール語(セネガルで使われる言語のひとつ)であって、フランス語はあくまで第二言語だか、…今後はひょっとするとセネガルの言葉で書くことだってありうると述べている」のであるようですし。
作家が複数言語に通じていて、どの言葉を使うかにはいろんな意味合いがありましょう。出自の意識を強く持って、そこに根差した言語と使うにしても、果たしてそれでどれほどの読者が得られるのか。北欧圏などの作家が敢えて?英語で著作を発表するケースはままあるわけで、それも単に「売らんかな」と思ってはきっと誤りになりましょうから。結果として売り上げが伴うにもせよ、作品の送り手としてはより多くの人たちに自らの作品にアクセスしてもらいたいと思っているわけで。その点、日本の作家の場合には、それなりの日本語人口がいることであまり考えなくていい領域かもですが。
と、日本の作家に話が至ったところで、冒頭に触れた村上春樹との関わりありや無しやですけれど、思い返せば本書の主人公ジェガーヌが友人と「作家になったきっかけは?」てなことを話しているとき、こんなことを言っていたのでありますよ。
…(作家としての)誕生をめぐるすごいエピソードなんかぼくにはない。たとえばハルキ・ムラカミみたいなね。…(野球の試合を見に行って)ボールが、純粋なハーモニーを奏でるように宙を飛んでいった。その完璧な軌跡を見て、ムラカミは自分がなすべきこと、なるべきものを悟った。つまり、偉大な作家だ。
少なくとも作者は村上春樹に関心がありそうですよね。で、作家が作家に関心を持つとして、その作品を全く抜きにしてということは考えにくい。村上の小説で、ふいと登場人物が消えてしまう、失踪してしまうのは何も『ねじまき鳥クロニクル』ばかりではないですし、それに本書の作者もきっと触れていたろうと。
解説にはそうしたほのめかしは無いですが、本書で失踪する作家のモデルはいる(失踪したわけではなく、故郷のスーダンに戻った)と紹介されますと、そのモデルを敢えて失踪に持っていったのは村上の影響なのでは?とも。作中には「井戸」にまつわるエピソードもちらり挿入されるにつけ、なおのこと思いは深まったりしたものです。ま、個人の見解ですけれどね。
おっと、本書の眼目(のひとつ?)たる「なぜ人間は、作家は「書く」のか」という点ですけれど、これは本書を実際に読むときのお楽しみにしていただければ幸いかと…(笑)。