JR中央線の立川駅からたっぷりとバスに乗って、武蔵村山市歴史民俗資料館を訪ねてみたのでありました。

ここでわざわざ「たっぷりとバスに乗って…」と申しますのも、ご存知の方が多いことでしょうけれど、

東京にあって鉄道駅の無い唯一の市であるからなのですなあ。

 

東京都といって伊豆七島など島嶼部を除きますと、

これ以外に鉄道駅が無いのは桧原村と日の出町くらいでしょうかね。

奥多摩町にも瑞穂町にも駅はありますし。

 

 

とまれ、かようにレアな武蔵村山市の資料館では、

特別展として「武蔵村山と鉄道-明治から令和まで-」が開催中と知ったものですから、

俄然興味を抱いて出かけていったような次第なのでありますよ。

 

 

展示は、いずこの歴史民俗資料館にも共通な、古代からの市の歴史をたどり、民具や農具などが置かれている、

まさにそんなふうでしたですが、常設展示の壁面をいくつか利用して解説パネルを設けた今回展では

鉄道の無い武蔵村山の悲願と迷走ぶりが痛いほど伝わる内容でありました。

 

鉄道が無い…鉄道が欲しい…と、この感覚はかつて一時にもせよ、武蔵村山市内を

鉄道の走った時期があったからでもありましょうかね。もっとも、貨物専用の軽便鉄道ではありましたが。

 

 

これは、青梅街道沿いのバス停から歴史民俗資料館へとゆるゆる上る道沿いで出くわすトンネルの跡。

近隣には、ここを鉄道が走っていたことを偲ばせるトンネルがいくつかありまして、これらのトンネルを含め、

廃線跡が今では自転車道になっておるのですな。

 

東京都心の水事情改善に向けた村山貯水池・山口貯水池(それぞれ今でいう多摩湖・狭山湖)の

工事にあたって資材などを運ぶ軽便鉄道が大正から昭和の初期に走っていた記憶が刻まれているわけですね。

 

残念ながらこの鉄道は当然に、工事が終われば廃線になってしまいますが、

その後幾たびも「すわ、鉄道がやってくる!」といった期待を、武蔵村山の人たちに抱かせる事業計画が

いくつも出ては消えていき、そのたびに市民は踊らされて…。

 

構想当時としては、実現性やら採算やらの点で考えられたものではあったのでしょうけれど、

いずれも目論見倒れになったその計画が解説パネルで紹介されておりまして、

そのうちのひとつに「阪東鉄道」というものがありました。

 

「武蔵村山市域を通過点として、八王子・大間々町(現・群馬県みどり市)間の鉄道敷設を計画」とは

なかなかにすごい構想ですなあ。埼玉県に入ると途中の熊谷で在来線と交差し、利根川を渡って

群馬の太田、桐生を結ぶという計画は、いかにも明治期らしく、織物の名産地を結ぶという意図もあったようで。

路線としても、構想された沿線は(武蔵村山のみならず)今でも鉄道の便が必ずしもよろしくないだけに、

出来ていれば、鉄道の圏央道みたいな位置づけになっていたのかも。

 

もうひとつ、大きめな構造としては「武州鉄道」というもの。吉祥寺・三鷹のあたりに発して

武蔵村山を経由して青梅から山間部に入り、奥武蔵を縫うように秩父に至るという路線ですが、

西武鉄道との競合必至と思しき路線は、すでに西武線が秩父手前まで通じていたという時期にあっては

やはり分が無い計画ではなかったろうかと。

 

ついでに触れておきますと、今は荻窪発着となっている地下鉄丸ノ内線を青梅街道沿いに延伸する構想も

あったにはあったようで。これはもう「あったにはあった」としかいいようがないかもです。

 

それぞれ、計画の際には地域のひとびと挙って誘致活動に邁進したようですが、いずれも夢破れた状態。

さしあたり今は、多摩都市モノレールの延伸(ま、モノレールも鉄道でしょうかね…)が待たれる状況ながら、

余所者の利用者感覚でいうならば、武蔵村山市方向に延伸するよりもまっすぐ北へ向かって

西武ドームとつないだ方が採算の点では割がいいのではと思ってしまいます。

武蔵村山の方々に対しては禁句でしょうけれど。

 

これまた余所者の勝手な思いながら、「東京にあって鉄道駅の無い唯一の市」であるというのは

唯一無二であるわけですから、それはそれで何かしら仕掛けようがあるようにも思ったりするのですが…。

どうでしょうかねえ…。