JR武蔵野線新座駅から野火止用水沿いの遊歩道をそぞろ歩き、新座市歴史民俗資料館平林寺睡足軒と巡ったところで此度の散歩はおしまい…だったのですけれど、ついでに立ち寄ったところをもうひとつだけ。

 

平林寺の門前を通る道には、新座駅行、朝霞台駅行、志木駅行と3本のバス路線が走っておりまして、単に帰路と思い描けば新座駅に出るのが便利なのですが、何とも本数が少ないのですなあ。新座あたりを走るバス・ルートは基本的に、昔から走っている東武東上線の駅と西武池袋線の駅を結んでいるわけで、JR武蔵野線の駅はなかなかなじめない転校生のような立場なのかもしれませんですねえ。もっとも、その武蔵野線も開業50年になるわけですが。

 

ちょうどタイミングの良いバスが朝霞台駅行でしたので、これでもって新座市のお隣、朝霞市へと向かったのでありますよ。東武東上線とJR武蔵野線がクロスするところ(ただし、東上線は朝霞台駅、武蔵野線は北朝霞駅)なだけに、乗り換えの人がわんさかいる一方で、特定方向に若い人たちの行き来があるのは東洋大学の朝霞キャンパスがあるからでしょうかね。

 

ともあれ、朝霞台駅・北朝霞駅からは途中、新校舎建築途上らしい東洋大学(資金潤沢なのですなあ…)のキャンパスを横目に見ながら歩くこと、15分ほどでしょうか。いささか唐突に朝霞市博物館はあるのでありました。

 

 

実は、新座ついでに朝霞方面へと思い至ったのはバスの都合もあるとはいえ、新座の地名が朝鮮半島の新羅由来であるとすれば、お隣の朝霞市もまた半島からの渡来人に由来するものでもあらんかと、想像したりしたわけで。何せ、「朝」の字が少々醸すではありませんか。実際には、入館早々に朝霞市紹介のガイダンスビデオでもって、朝霞の地名は至って歴史が浅いものであると知らされることになったのですけれど。

 

 

現在の朝霞市となったエリアには、古くから川越街道が通り、膝折宿という宿場があったのだとか。慣れ親しまれた地名ながら、東京・駒沢にあった東京ゴルフ倶楽部が移転してくることになった際、ゴルフをやるのに「膝折」とは縁起が悪い…ということが、展示解説に示されているところですな。時に1932年(昭和7年)、新しい町の名前はいかに肖ったとはいえ、直接に「朝香」として畏れ多いと思ったのでしょう、結果「朝霞」になったということで。こういう由来もあるのですなあ。

 

 

ところで館内展示の一端はこんなふうです。何処の郷土博物館とも同様に、縄文・弥生といった時代の遺物から展示は始まりますけれど、ここではそのあたりをちと端折ってやおら江戸時代に飛びますが、展示に「陸の道と水の道」とありますように、あたりは水陸の交通によって大いに栄えたようでありますよ。

 

 

陸路の方はさきほども触れました川越街道の膝折宿があったわけですな。元々、室町時代から市が開かれていたという記録も残る賑わいある土地柄だったようですが、「江戸時代の終わりごろになると、川越藩の人々や秩父の札所などを巡る旅人が増え、ますますにぎやかになってい」ったのであるとか。

 

 

一方、水運の隆盛はといえば、市の北側を流れる新河岸川から荒川を経て江戸へと繋ぐルート上に河岸場が設けられたことによるのであると。ちなみに新河岸川は玉川上水から引いてきた野火止用水の到達点でもありますし、そも新河岸川もまた、野火止用水の開削同様、川越藩主であった松平信綱が川筋を整備したことで舟運が栄えるようになった…とは、土木に長けたお殿様であったことがここでも窺い知れようかと。

 

 

と、水運・陸運で賑わった朝霞ですけれど、これ以外に今で言う第二次産業、工業分野でも江戸時代から活況を呈していたというのですね。それが「伸銅」(「銅や真鍮などを引き延ばして板・条・棒・線・管に加工すること」)なのであるとか。市域を通る新河岸川と黒目川の流れを利用して、たくさんの水車が設けられていましたが、これを動力として銅を引き延ばす加工を行ったようです。江戸末期に始まって後々まで朝霞を代表する産業となったせいか、展示もまた実に大きなものがありまして。

 

 

個々に掛けた水車を利用した町工場的な運営でもあったでしょうか、1970年頃まで続くも、だんだんと大手企業の大量生産に太刀打ちできなくなっていったようで。今でも操業を続ける工場が全くなくなってしまったわけでは無いようですけれどね。

 

博物館と駅とを結ぶ道筋では黒目川を渡るのでして、通り過ぎながら「ああ、ここらにもかつては水車がぐるぐるしていたのであるか…」てなふうに思ったものなのでありましたよ。

 

 

ということで、新座ついでに朝霞も訪ねた今回のぶらり散歩はこれにて終了でございます。