東京・清瀬にリコーダーフェスティバルを聴きに行ったわけですけれど、清瀬市というところ、(誠に失礼ながら)東京の北辺にあってあたかも盲腸のようにぴろっと埼玉県に付き出している場所でして、今までついぞ足を踏み入れたことがないような。埼玉の所沢から池袋へと抜ける西武池袋線が通って清瀬駅がある分、駅無し市という嘆きあらわの武蔵村山市よりは恵まれているのかもしれませんですね(単に鉄道誘致にやっきになることがない分、ということですが)。
一方で駅は存在しないものの、清瀬市の北辺をJR武蔵野線の線路がちらりと横切っているという関わりからでしょうかね、初めて清瀬にやってきたついでに立ち寄った清瀬市郷土博物館では「武蔵野線開業50周年ー清瀬を駆け抜ける武蔵野線ー」というテーマ展示が行われていたのでありますよ。
そもJR武蔵野線は、高速道路で言えば外環道のようなものであって、都心に乗り入れずに各方面への乗り継ぎができることが目指されたところでしょうけれど、これは元より都心迂回の貨物線が存在して、これを旅客輸送にも併用できる(つまりは各所に旅客の乗降できる駅を設ける)ようにしたものとばかり思い込んでおりましたが、どうやらそうではない新設路線であったようですなあ。展示資料にある「東京外環状線の効果とは…」には、こんな記載がありましたし。
1日百数十回に達する貨物列車を都心部の山手線から外してそとまわしにすることによって、在来の都心部の貨物線を有効に旅客輸送に利用できるようになります。また、放射幹線相互の連絡がよくなります。基本的には今後の東京を中心とする鉄道輸送改善の基盤が確立されることになります。
元から都心迂回の貨物線があったのであれば、このようには書かれませんものね。結局のところ、武蔵野線という旅客線の新設のみならず、そこを併用で貨物列車を通すこととで、都心を抜ける貨物専用線を旅客用に転用できる、結果として湘南新宿ラインに代表されるような、各種路線の相互乗り入れが可能になったということのようで。ただ、直通するという利便性は高まったものの、高崎線のトラブルが横須賀線に影響するといったやっかいな点も浮上してきておる昨今ではなかろうかと。
ともあれ、工事は昭和40年(1965年)に始まり、昭和48年(1973年)府中本町~新松戸間で開業することに(その後、延伸して京葉線と結ばれる)。ただし、基本線としては貨物優先でもあったのか、当初のダイヤは通勤時間帯で15~20分間隔、日中は約40分間隔で運行されたのであるとか。印象として「武蔵野線って、電車来ないねえ…」というイメージが長くありましたですが、近頃はようやっと気兼ねなく利用できるようになったように思っておりますよ(個人的印象です)。
てなふうに開業した武蔵野線。新規路線であるため、取り分け清瀬を抜けるあたりは最初から全線高架で作られたようですけれど、一部区間は既存線の再利用があったようですな。思い返せば、それが府中のあたりを通っていた下河原線の廃止につながるわけですね。しばらく前に廃線跡の緑道を散歩したことがありましたっけ。
ところで、武蔵野線が旅客の利便性を謳いつつも、開業当時はいかに貨物優先で考えられていたのかが分かるのは、西武池袋線で清瀬駅のお隣(所沢寄り)にある秋津駅と武蔵野線にできた新駅である新秋津駅の位置関係でしょうかね(なんだかどこかでも書いたことがあるような気がしますですが…)。展示にあった写真(オリジナルは国土地理院の航空写真とか。2019年頃)をご覧くださいまし。微妙な関係にありますよねえ。
西武池袋線が横方向、JR武蔵野線が縦方向に伸びておりまして、乗換客にとってはその交差地点に限りなく近いのが圧倒的に便利なはずながら、そうはなっていないわけです。これは、首都圏私鉄の駅でJRと近接しながらも付かず離れずにあるケースがままありますように、西武の側が嫌ったのか…と思ったりもしたところ、どうやら逆であるようで。JRの側がそもそも貨物をメインに敷設するのに乗客が余り増えると、貨物輸送に支障をきたしかねないからということでもあったとか。ただ、Wikipediaの「新秋津駅」の項目には地元商店街の反対という、別の理由が紹介されていたりしますが…。
しかしまあ、何につけ計画時の目論見とは異なる時代の変化が及ぶことはあるわけで、今では武蔵野線はすっかり旅客鉄道、たまに貨物てな具合になってますよね。もはや駅自体が近づくことはないのかもですが、新秋津駅は今も西武戦から一番遠い側にしか改札口がないところを変えることはできないことではなさそうですが、果たして…。ということで、JR武蔵野線の駅が全く無い清瀬市の郷土博物館で、同線開業50周年の便乗企画(失礼…)を眺めて来たのでありました。