先には、サイクリング!サイクリング!と些か浮かれ気分で(?)前置きが長くなってしまい、江戸東京たてもの園で開催されている特別展『江戸東京のくらしと食べ物』(会期は6/15まで)のお話がすっかり後回しに。ともあれ、展示室の拝見に及ぶといたしましょう。
屋外の建物展示がメインであるだけに資料展示のスペースは至って小さいものながら、本展では次のような4章立てになっておりましたよ。
- 第1章 華開く江戸の食文化
- 第2章 食文化の文明開化
- 第3章 戦中戦後の食事情
- 第4章 外食産業の発達と食の多様化
ということで、まずはお江戸の食文化と。幕府が開かれて、それまで全くの田舎であったところに人口流入著しく、それを賄う「食」を確保する必要は、河川改修を促すことにもなったでしょうかね。
河川改修というと、どうしても氾濫対策をまず思い浮かべますけれど、舟運のための利便性を図ることも大事な点だったわけですね。今のような保存技術が無い時代、関東一円は江戸の食を支えるため、舟運をも通じて大きく貢献していたことでありましょう。
で、運ばれた物資をどう食べる…という点では、何しろ男比率の至って高いお江戸(侍は本国に妻子を残し、あちこちの農村からは次男坊、三男坊が食い扶持を求めて集まってくる…)では「外食」がもてはやされることに。住宅事情も芳しくないだけに、露店でもっていろいろな食事が提供されることになりますな。
こちらは鍬形蕙斎『近世職人尽絵詞』(展示は明治期の模写)から19世紀初頭、化政年間ころの屋台店のようすでして、天麩羅屋、するめ屋、四文屋が軒を連ねているという。四文屋というのは「なんでも1品4文で売る店のことで、1768年(明和5)に新たに四文銭が造られてから流行した」とか。
もちろんこれ以外にも、そば、すし、蒲焼など、現在にも続く食の多様化ができあがっていくのもお江戸の時代。背景のひとつには、味付けの工夫に調味料がひと役買っていたようで。
これによって味のバリエーションが大きく広がり、新しい料理もたくさん考案されていったことでしょう。ちなみに、お江戸の人たちが大好きな見立番付で当時の人気料理を見てみれば…。
右側「精進方」に並ぶ品も調味料あってこそのものがありますですね。一方で左は「魚類方」ですが、筆頭がめざしいわしであるとは!まぐろの料理もちらほらありますけれど、まあ、目刺しは安かったからであるかと思ったりしたところ、まぐろはかつて寿司ネタにも使われていなかったのだとか。こんな解説文に接して「そうであるか?!」と思ったものです。
1836~37年(天保7~8)頃、江戸近海でマグロの大漁があり、処分に困ってすしやに使用を勧めたところ相性がよく、握りずしの代表的な材料になったという。
今でこそ握り寿司といえばまずマグロですけれどねえ、後発組だったとは。余談ながら、うなぎの蒲焼も調味料あらばこそでしょうな。元々、「室町時代頃までは(うなぎを割かずに)まるごと焼いて、串に刺したその姿が「ガマ(蒲)の穂」に似ていたことから、かば焼き(蒲焼)となったといわれ」るわけですが、「この調理法では火の通りが悪くおいしくなかったようで、江戸時代になるとウナギを開いて串に刺して焼くようになった」と。結果、名前の由来は跡を留めませんが、おいしい料理になっていったと。
こうしたことを通じて、食への飽くなき探究(ガストロノミー?)が始まった江戸時代、『豆腐百珍』(天明二年・1782年)を嚆矢に、素材ごとにさまざまな調理法を伝授するレシピ本が多々刊行される一方、庶民には無縁ながらも高級料亭のようなものも誕生してくるのですな。
歌川広重には『江戸高名会亭尽』なるシリーズ作品もあるようで、ここに見る深川八幡前の「ひら清」などは『御料理献立競』という、これまた料理屋の見立番付は上位一、二を争う店だったそうな。
解説の中に、この番付で中央下の勧進元として別格扱いに名を連ねる「八百善」のエピソードが紹介されていて、いやはや驚かされましたな。
(八百善で)お茶漬けと香の物を頼んだところ半日ほど待たされた挙句、料金が1両2分かかという話がある。その料金の理由が遠方の川に水を汲みに行った運送費ということで、江戸の町は上水が引かれ、井戸などもあったが良水とはいえなかったようで、八百善のこだわりようがうかがえる。
そんなこんな、ガラパゴス的発展を遂げていったお江戸の食文化が、この後に文明開化に接してどうなっていきましょうや?またまた長くなってきましたので、そのあたりはこの次に。