東京・国立市の公民館で開催された「食文化講座」というのを聴いてきたのでありまして。タイトルは「食から世界を考える」、講師は国立市内にも校舎のある辻調理師専門学校で「食文化概論」を担当している方でありましたよ。ちなみに、「国立市内にも校舎のある」と申しましたですが、来年2024年春には移転してしまうのであるとか。移る先はなんと!学芸大学の敷地とは。なんでも学芸大とのジョイベン(国立大学法人に馴染む言葉かどうかは分かりませんが)みたようなことだそうで。余談ですが。

 

 

ともあれ、講座に関しては大きな話になりそうなところを2時間枠でどう展開するものであるかと気にかけておりましたが、どうも話からすると、9月に4回連続講座を行う前宣伝のような形になってしまっていたようで。当初から4回講座が設定されていたのかどうかは知る由もありませんけれど、次から次へと話を端折ることになっていったようすに(用意されていたパワポのページを次々と飛ばしていきましたのでね…)「そりゃあ、ないだろう…」てな気がしたものです。と、やおら愚痴めいたところから始めてしまったものの、ぴぴっと来るところが全くないではなし、出かけたことが無駄だったとまでは思っていないわけで。

 

で、どのあたりにぴぴっと来たのであるかということになりますと、上のフライヤーにもちらり見えておりますが、「ガストロノミー」という言葉のあたりに。「美食」を想起し、イメージとしてはそこから「飽食」とも受け止めてしまうところながら、本来の意味合いはどうやら異なったものであるようで。「コトバンク」の「知恵蔵」引用にはこのような語釈が。

料理という言葉が食材を調理する方法を指すのに対し、料理を中心として芸術、歴史、科学、社会学などさまざまな文化的要素を考える総合的な学問。文化と料理の関係を考察すること。美食学や美味学などと訳され、生理的のみならず精神的にも意義を持つ食の営みを研究し、おいしさを作り出す技術を、理論で裏付ける。

「美食学」、いやはや学問であるとは思いもよりませなんだ。語源としては古代ギリシア語の造語として登場したのは古い時代であるところが、いつしか埋もれてもいたような。で、今回講座では「ガストロノミー」という言葉の復権者として、大革命時代を生きた二人のフランス人を挙げておりましたなあ。

 

ひとりは詩人ジョゼフ・ベルシューがその著作に『ガストロノミーまたは田園の人』というタイトルを付けたということで。もう一人の方は先の「コトバンク」にも記載がありますけれど、法律家のジャン・アンテルム・ブリア=サヴァランであると。その著作は『美味礼賛』といういかにもな意訳をタイトルに邦訳されているも、原題を直訳するなら「味覚の生理学、或いは、超越的ガストロノミーをめぐる瞑想録」となるようで。

 

古代ギリシアで誕生し、その後埋もれた言葉をこの二人が著作を通じて復権させたとはなるほどながら、どうも二人の間では使われように少々異なりがあるような。ベルシューの方は元々王党派として旧来の特権を享受した側であって、大革命で王党派の雲行きが怪しくなりますと田舎に引っ込んでしまい、そこで『ガストロノミーまたは田園の人』を著したようですな。それまでパリで送っていた豪奢な生活とは一辺する田園にあって、素朴な食事への思いを深めたのかもしれません。それこそ、古代ギリシア・ローマ時代の「食」を探究したりもしたようです。

 

と、これはいささか勘ぐりすぎとは思いますけれど、かつてアンシャンレジームの側にいた人物が田園風景の中で「食」にも新たな思いを見出し、これを礼賛する…ては方向は、マリー・アントワネットがヴェルサイユの片隅で田舎家の生活の真似事をしていたことを思い出させたりも。飛躍すれば、王党派としては暗に著作を通じて、要するに旧体制賛美を含ませていたのかもしれんなあ…とは、講座では語られたりしませんが、個人的な妄想としてはそんなふうにも。

 

一方のブリア=サヴァランの方は、本人がそも美食家として知られたということもあるようですので、邦訳にあたって『美味礼賛』というタイトル付けがなされたことも相俟って、展開する「ガストロノミー」の意味合いは、現代になんとなく思い描くイメージに近づいているような気がしたものです。そのブリア=サヴァランは大革命時には第三身分の側に立っていたようですけれど、それが美食家たりうる生活を送るようになるというのは、フランス革命による世の盛衰の一端を見る思いがしますですね。

 

ところで、世界史を並行的に見てみれば、フランス革命からナポレオン戦争の時代は、日本では江戸時代後期、幕末動乱前に起こったひとつの文化爛熟期である文化文政の時代にあたりまして、この時期に日本は日本で料理本ブームが巻き起こっていたそうな。天明二年(1782年)に出版された『豆腐百珍』などはそのはしりと言えましょうか。

 

豆腐という身近な食材を使って、百種類もの調理法を示す『豆腐百珍』は単に豆腐を食するということを遥かに超えて、豆腐という素材の持つ可能性をさまざまな調理で引き出し尽くす、つまりは探究心に溢れた著作で、まさに学問・研究としての「ガストロノミー」でもあろうかと思うところです。まあ、そうしたレベルで考える限り、日常的な料理という行為は常に研究・実験でもありましょうかね。

 

こんなふうにしてみたらいいかもと、何かしらの調味料を垂らしてみたら、「う、まずっ?!」となったり(笑)。「ガストロノミー」と耳にしたところでは全くもって無縁の世界とも思っていたところが、毎日自らの行う営為がその一端を体現する(?)ものであったとは思いもよらず。この点では、目からウロコが落ちるような気がしたものなのでありました。