通の人ならいざ知らず、浮世絵ときいて真っ先に思い浮かぶのは葛飾北斎でもあろうかと。何しろ「世界の北斎」ですからなあ。ではありますが、それと同じくらいに(個人的には北斎以上に)歌川広重を思い出すのは、永谷園の「お茶漬け海苔」に広重の「東海道五十三次」がカードになっておまけで付いていたからでもありましょうかね。
とまれ、北斎のことは作品のみならず、、その人柄やら生き方やら語られる機会が多いものですから自ずと知ることも多くなる。一方、広重はかつて安藤広重なのか、歌川広重なのか、混在していたりもして、どうも人物像にまではなかなかたどり着かなかったような気も。残された肖像から想像する限り、元々お武家というだけあって謹厳実直そうな印象、「男は黙ってサッポロビール」的なところが、奇行の知られる北斎とは打って変わってあまり語られないところでもあったろうかと思ったり。さりながら、そんな予断を覆す広重がここにおりましたなあ。『広重ぶるう』という一冊の中に。
もちろん、小説ですので分からない部分を想像で補っている点は多々ありましょうし、人物造形は小説のものであって、実際に広重がかかる人物であったとはいえないわけですが、ともあれ、ここでの広重、ひと言でいえば「江戸っ子だあね」と。
火事の多かった江戸の町にあって、幕府直属の火消役人である定火消同心の家に生まれた安藤重右衛門は、「火が出た!」となれば町中を駆け巡るお役目の傍ら、絵師として立つことを思い描いているのですな。絵師としての技量も箔も身に着けるため、当時人気の歌川豊国に弟子入りを志願するもの、あまりの人気に人が集まりすぎて門前払い。やむなく歌川豊春門下では豊国と兄弟弟子の関係にあたる歌川豊広に頼ることになりますが、羽振りのいい豊国の下からは国貞(後の三代目豊国)や国芳が出てくるにつけ「自分もあっちにいれば…」と思ったり。ただ、国芳とは同年生まれとあってライバル心をたぎらせて、「おれはおれで…」と思うも、一向に目が出ないのですなあ。
なんとなれば、浮世絵の歌川派の一人なれば美人絵を、役者絵をうまく描いて当たり前と思われる中、広重は確かな画力を持ちながらどうにもこの類いを描くのが苦手だったようで。悶々と日々を送る中、とある小さな版元から揃い物、シリーズものの注文が入り、色めき立つ広重。なんと55枚の一括発注…とは、東海道の53の宿場それぞれと、加えて江戸日本橋、京の三条大橋を加えた、いわゆる『東海道五十三次』で、依頼主はもちろん保永堂なのですなあ。いくつも手掛けた東海道揃いもののうち、広重初となるシリーズは「保永堂版」として知られておるわけで。
ただ、保永堂がこの話を持ち掛けたその頃、広重は広重で「ベロ藍」と出会い、それを効果的に活かした画を描きたくて描きたくてという状況でしたので、まさに渡りに船ということに。結果、シリーズは大当たりして、数々の風景画、名所絵の注文が矢継ぎ早に舞い込んでてんてこまいになる広重なのでありました。ちなみに、ベロ藍、プルシアン・ブルーは「ベルリン藍」として伝わったものが縮まってなまった命名であるとか。これが後には「広重ブルー」とまで言われるようになっていくとは、ご当人も想定外でありましょう。
さりながら、当時お江戸の絵師が扱う画題に関して、あたかも西洋絵画にも似た序列があったとは。浮世絵としての格は美人画、役者絵などの人物画、肖像画が上位にあり、風景画、名所絵などは格下だったのだとか。単純にどちらの売れ行きがいいかという点から出たものでもあったようで、美人画や役者絵ほどに風景画は売れない画題であったのでしょう。広重はこれをひっくり返したわけで、当人としても「してやったり」と。
このへんの心理的背景には、当代一とされた歌川豊国門下にない傍流の存在という僻み、歌川派の本流ともいうべき美人画が特異でないと劣等感があったわけで、広重の人間らしいところもしっかり窺えるのですなあ。
という具合に、あまり語られない(ような気がしている)歌川広重の姿に接してきて、作品の見方もちと変わるような気になったりしたわけですが、折しも先日、東響の演奏会を聴きに出向いた川崎では「行書・隷書東海道」展という展覧会が開催中。「行書東海道」、「隷書東海道」のいずれも、保永堂版の人気から生じた後追い企画で、広重の手になるものとあっては、どうしたって会場の川崎浮世絵ギャラリーには足を向けてしまいますな。ですので、次にはこの展覧会のお話ということに。