ちょいと自転車で出かけただけでしたが、江戸東京たてもの園、ガスミュージアム、武蔵野美術大学民俗資料室を巡ったという長い話になってしまい、それが終わったところでまた自転車で(笑)。ま、今度は移動距離は短く、訪ねたのも一カ所だけですけれどね。
ただ、途中には自然の要害とは大げさですが、たまらん坂(RCサクセションの「多摩蘭坂」として知られますな)が立ちふさがり、また続いてJR武蔵野線を跨ぐ陸橋をも登りこさなくてはならないという、自転車泣かせのポイントがあるのですよね。もっとも、本当のサイクリスト?は「登り坂が無くては物足りない」という方々のようですので、お仲間には入れんなあとつねづね…。
ともあれ、このほど訪ねたのは東京・西国分寺駅からほど近い東京都公文書館でありまして、ミニ企画展として『川越鉄道と地域~全線開通130年記念』が開催中(会期は5/20まで)を覗こうと。
さほどに「鉄」分は多くないと日頃申しておりながらも、その多くない部分はもっぱら歴史「鉄」を指向しておるのか、昨2024年にもパルテノン多摩ミュージアム@多摩センターの企画展「鉄道が街にやって来た~多摩ニュータウン鉄道開通50周年~」やら福生市郷土資料室の青梅線開通130周年記念企画展示『青梅線と福生の砂利輸送』やら出かけてしまっており…。今回も同様といえましょうなあ。
さりながら、もとより「ミニ」企画展というだけあって展示は至って小規模。それでもそれなりに興味深いところはあったですけれどね。だいたい、今年2025年に全線開通130年となる川越鉄道とは…?てなあたりから。現在のJR川越線?と思いそうなところですが、しかしてその実体は?…というわけで。
明治28年(1895)3月21日、甲武鉄道(現在のJR中央線)国分寺駅と埼玉県の川越駅を結ぶ延長29.8kmの地方鉄道が全線開通しました。今日の西武新宿線の一部と国分寺線のルーツとなった川越鉄道です。
展示の冒頭、「ごあいさつ」にこうありまして、現在の感覚でいいますと新宿と川越とを結ぶ西武新宿線ありきの上で、途中の東村山と国分寺とを結ぶ西武国分寺線はまあ、支線のようなものと受け止めてしまいがちながら、実際は川越と国分寺とを直接につなぐ川越鉄道こそ「ありき」だったのですなあ。
では、何故にこのような路線が計画されたのであるか。当時の申請書類等の展示(一部は写真パネル)から見えてくるのは、なかなか一筋縄にはいかない状況ということになりましょうか。
計画当初の申請書類からは、川越鉄道が入間地方の産業・経済の進展に、この地方からの物資を東京方面に運搬しようとする切実な願いがから起動したことがわかります。また、甲武鉄道系の資本家らがこれに加わり、出資金と鉄道運営の実務の両面で大きな役割を果たしていました。
茶どころで知られる狭山を含む入間地方の有力者たちの要望と、国分寺駅での接続により輸送需要増と見込んだ甲武鉄道(当時は私鉄)の思惑とが合致したのが発端と。さりながら、始発駅たる川越はといえば、「江戸時代以来、新河岸川を通じた舟運で賑わった川越の商人らは、当初は川越鉄道の開通に後ろ向きだった」というのですな。
新河岸川を利用した舟運の賑わいのほどは、一昨年(2023年)に訪ねた朝霞市博物館でも紹介されており、川越商人がこれに頼って鉄道に後ろ向きだったというのも「なるほどね」と。さらには、現在は西武新宿線の終着駅となっている本川越駅が、観光客が闊歩する小江戸川越の古い街並みから中途半端に離れて立地しているのも、こうした背景によるのであるか…と今さらながらに思うところでありますよ。
川越商人が背を向けるということがあったにせよ、開業後の川越鉄道は入間川で採取する砂利運搬にも力をいれ(このあたり、都心を始めとする建設ラッシュ対応で青梅鉄道などとも共通するところですね)、さらに旅客需要喚起にも乗り出したようで。明治44年(1911年)発行の時刻表には「沿道名勝案内」も掲載されておりますよ。
そこには川越の喜多院を始め、今では西武秩父線がカバーするハイキングの名所や国分寺駅最寄りとしては「名勝 小金井桜」の案内が見えますな。ちょうどこの辺りまでなら行楽に出かけられるという世の中の雰囲気とマッチしたのでもありましょうか。
しかしいい話ばかりが続くわけではありませんな。最初の契機は設立当初からタッグを組んできた甲武鉄道が明治39年(1906年)に国有化されたことで、川越鉄道は自立を求められることになったと。さらに、「大正4年(1915)には、東上鉄道(下板橋―川越)・武蔵野鉄道(池袋―飯能)の競合路線が開通し、その経営に揺らぎが見えることとな」ったそうなのですなあ。その後は何度も経営母体が代わっていったようでありますよ。そのあたりは展示解説から掻い摘んで。
…さらに各鉄道会社が電化によるスピードアップを模索する中、大正9年(1920)10月に電力会社・武蔵水電が川越鉄道を合併します。しかし、大正11年には帝国電灯が武蔵水電を合併、鉄道部門を分離独立させ、同年8月、武蔵鉄道が設立されました。この年11月、武蔵鉄道は西武鉄道と改称しました。
ということで、鉄道の歴史はあちこちで合併やら名称変更やらが絡んで、なかなかにつかみがたいところがありますけれど、余談ながら今回展示の解説から「ほお、そうであったか…」ということも知ることに。
川越鉄道を合併した武蔵水電は「青梅街道上で電気軌道を営業していた西武軌道(淀橋―荻窪)も合併し」たとありまして、紆余曲折を経て頓挫はするも、後の西武新宿線のルートはともすると青梅街道に沿って荻窪からさらに先へと進むことになっていたのかもと。このあたり、鉄道を熱望する武蔵村山市の歴史民俗資料館で特別展『武蔵村山と鉄道-明治から令和まで-』を見た折り、計画倒れに終わったルートを思い出したりもしたものでありましたよ。