と、東京・小平市のガスミュージアムに立ち寄って、すっかり渋沢栄一の話になってしまいましたですが、実のところ、何度か出向いている施設だけにお目当てとしていたのは企画展の方だったのでして。ガス灯館2階のギャラリー、こちらの階段を上った先が会場でありました。

 

 

6月22日までを会期として開催中であったのは「気象業務150周年記念 自然現象が教える持続可能な未来への道『天気を映す明治の東京』」でありました。ガスミュージアムは東京ガスの企業博物館であって、日本のガス導入の歴史と今、そして未来の展望を扱っているのが主であるも、ガス導入黎明期の象徴がガス灯であって、明治期にはその珍しさから多くの明治錦絵に描かれている、とまあ、そんな関連でしょう、同館には明治期の錦絵コレクションがおよそ400点あるそうな。それをテーマ設定の下に企画展示しておるというわけで。

 

 

ですが、今回のテーマ設定の背景にあるのは「気象業務150周年記念」と。いったいガスと気象業務がどう絡むのかは詳らかでないものの、要するに各種周年行事にあやかる(直接の関係はないけれど)イベントの一環となりましょうかね。

 

とはいえ、何かにつけて歴史にまつわるあれこれは興味をそそるところでもありますので、錦絵の展示以前に解説パネルの並んだ気象業務の歴史の方も、ついつい見入ってしまったり。150年前、そもそもの始まりはこういうことであったようで。

明治5年(1872)に函館へ気候測量所(現在の函館地方気象台)が設置されてから3年後、明治8年(1875)6月1日に、現在の港区虎ノ門の地で東京気象台(後の中央気象台、現在の気象庁)が気象観測を開始し、日本の気象業務が始まりました。

その後、全国各地で気象観測が行われるようになり、全国天気図が作られたのが明治16年だといいますから、観測施設の整備には時間がかかったのですな。天気図が作られだすと翌年には「毎日3回の全国の天気予報の発表が始ま」るも、「最初の天気予報は…日本全国の予報をたった一つの文で表現してい」たそうな。曰く、こんな具合に。

「全国一般風ノ向キハ定リナシ天気ハ変リ易シ 但シ雨天勝チ」

個人的には何かと物事、昔を懐かしがったりする傾向無きにしも非ずですけれど、こと天気予報に関しては、明治期のこの予報では何にも分らんなあと、天気予報の精度向上(それでもやっぱり外れることはありますが)にはずいぶんと恩恵に預かっているものだと思いましたですよ。

 

で、錦絵を見に来て、気象業務の歴史の話ばかりではなんですので、「ガス燈のあかりが「月」「雪」「雨」などの美しい自然現象とともに表現された錦絵を紹介」するコーナーへ。ガス灯がらみですので、展示作の中心は「光線画」で知られる小林清親とその弟子、井上安治でしたな。

 

「光線画」の技の冴えは夜景にあると思うも、必ずしも夜景を描いた作品でなくとも、描きようの工夫のほどが窺えるものもあったり。雨の情景を描いた小林清親『梅若神社』などはその最たる一枚ではなかろうかと。

 

ちなみに、気象状況を描き出すという点で、以前読んだ中公新書ラクレの一冊、『天気でよみとく名画 フェルメールのち浮世絵、ときどきマンガ』を思い出したりも。

 

 

気象予報士の著者が描かれた天気でもって名画を読み解くという内容で、それなりに「ほお」とか「ふ~ん」と思って読みましたですが、画家の技の冴えは観天望気を可能するのであるかと関心する一方で、あんまりはっきり気象解説されてしまうと、絵画を見る興が殺がれるようなきも個人的には。全く逆に絵画に接する材料として大いに役立つと見る向きもありましょうけれどね。と、余談でした。

先月にEテレ『100分de名著』で村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』が取り上げられたのを見ていたせいでもありましょうか、唐突に人がいなくなる…という点だけ取っても「もしかして影響を受けている?」と思ってしまった小説をようやっと読み終えたのでありますよ。セネガル出身の作家モアメド・ムブガル・サールの『人類の深奥に秘められた記憶』という一冊です。

 

 

著者同様にセネガル出身でパリ在住の若手作家ジェガーヌが、遥か昔の 1938年にセンセーショナルなデビューを飾るも毀誉褒貶の挙句に失踪してしまった(やはり)同郷の作家T・C・エリマンの後を追っていくというお話なんですが、実にスケールの大きな(といって単に壮大というでなく、重層的なという意味で)作品でしたなあ。

 

でもって、久しぶりに小説らしい小説を読んだ気にもなりました。このところは比較的読みやすいものばかり読んでいて、ま、読みにくいのが「小説らしい小説」だと思っているわけではないものの、ストーリーの面白さだけに寄りかからない、叙述上の創意工夫とでも言いましょうかね。

 

そのあたりが読み手を戸惑わせはするところながらも、破綻寸前の均衡を保っているとでもいいますか。巻末に付された訳者による解説の中では、こんなふうに記されてもいて。

…作品自体はジェガーヌの言葉よりも、さまざまな他人の言葉を紡ぎ合わせることで成り立っている。…一人の語りのうちに別の人間の語りが混じり、ナレーションが複数化して、分岐しながらつながっていくのも本書の特徴だ。だれが語っているのか不分明になる瞬間もあるが、その宙吊り感覚がいっそう話の興趣を増している。

「ああ、文学だなあ」と思ったりもしたものでありますよ。だからこそのゴンクール賞(フランスの芥川賞?対象は必ずしも新人ではないでしょうけれど、本書の著者は同賞史上二番目の若さだったとか)受賞作なのかもですが、ただこの賞は前提として「フランス語で書かれた作品」が対象であると。

 

作者の出身地セネガルは、パリダカ・ラリーのゴールになるダカールを首都として西アフリカに位置していますけれど、長らくフランスの植民地であったわけですが、独立後もフランス語を公用語としているそうですので、セネガルの人がフランス語で小説を書いても不思議でないとは言えるのでしょう。

 

そうではあっても、やはりセネガルの人たちは地域地域の言語があるそうな。それだけに、フランス語を自由に操れる、さらにはフランス語でもって「文学」を生み出すとなってきますと、これまたやはり『100分de名著』でしばらく前にたフランツ・ファノン『黒い皮膚・白い仮面』を思い出してしまったりも。ファノンはカリブ海のマルティニーク(今でもフランスの海外県)の出身で、アフリカではないものの。

 

ファノンとの直接的な関わりを指摘するではないながら、やはり本書解説にはこうした一文がありましたですよ。

…フランス語による教育を授けられて、社会的上昇を目指せば目指すほど、彼らは白人への同化を余儀なくされるばかりか、それを自ら進んで求めるようになる。いわば呪縛のメカニズムによって、「自分たちの文化を支配し虐待した文化」を崇め、「自分たちを破壊するものになりたいという欲望」に取りつかれるのだ。

ただ、こうしたところを(他人事ではありながらも)危ぶむ気持ちというのは時代を経て、も少し大らかに見ることもできるのか、本書の若い作者(1990年生まれ)は「自分にとっての母語はセレール語(セネガルで使われる言語のひとつ)であって、フランス語はあくまで第二言語だか、…今後はひょっとするとセネガルの言葉で書くことだってありうると述べている」のであるようですし。

 

作家が複数言語に通じていて、どの言葉を使うかにはいろんな意味合いがありましょう。出自の意識を強く持って、そこに根差した言語と使うにしても、果たしてそれでどれほどの読者が得られるのか。北欧圏などの作家が敢えて?英語で著作を発表するケースはままあるわけで、それも単に「売らんかな」と思ってはきっと誤りになりましょうから。結果として売り上げが伴うにもせよ、作品の送り手としてはより多くの人たちに自らの作品にアクセスしてもらいたいと思っているわけで。その点、日本の作家の場合には、それなりの日本語人口がいることであまり考えなくていい領域かもですが。

 

と、日本の作家に話が至ったところで、冒頭に触れた村上春樹との関わりありや無しやですけれど、思い返せば本書の主人公ジェガーヌが友人と「作家になったきっかけは?」てなことを話しているとき、こんなことを言っていたのでありますよ。

…(作家としての)誕生をめぐるすごいエピソードなんかぼくにはない。たとえばハルキ・ムラカミみたいなね。…(野球の試合を見に行って)ボールが、純粋なハーモニーを奏でるように宙を飛んでいった。その完璧な軌跡を見て、ムラカミは自分がなすべきこと、なるべきものを悟った。つまり、偉大な作家だ。

少なくとも作者は村上春樹に関心がありそうですよね。で、作家が作家に関心を持つとして、その作品を全く抜きにしてということは考えにくい。村上の小説で、ふいと登場人物が消えてしまう、失踪してしまうのは何も『ねじまき鳥クロニクル』ばかりではないですし、それに本書の作者もきっと触れていたろうと。

 

解説にはそうしたほのめかしは無いですが、本書で失踪する作家のモデルはいる(失踪したわけではなく、故郷のスーダンに戻った)と紹介されますと、そのモデルを敢えて失踪に持っていったのは村上の影響なのでは?とも。作中には「井戸」にまつわるエピソードもちらり挿入されるにつけ、なおのこと思いは深まったりしたものです。ま、個人の見解ですけれどね。

 

おっと、本書の眼目(のひとつ?)たる「なぜ人間は、作家は「書く」のか」という点ですけれど、これは本書を実際に読むときのお楽しみにしていただければ幸いかと…(笑)。

さてはて、予定の期日よりも一日早くしれっと再登場いたしましたけれど、皆さまはGWをいかがお過ごしでしたでしょうか。当方は野暮用にうつつを抜かしておりましたが、それはそれとして、例によりしばしのお休みがまるでなかったかのようにお話は続いてまいります(笑)。

 


 

先日の近隣サイクリングでは立ち寄りスポットが3カ所で…と申しましたが、江戸東京たてもの園の話ばかりが長引いてしまいましたなあ。ようやっと二つめに移りまして、江戸東京たてもの園からは新小金井街道をひたすら北上、小平市のガスミュージアムへとたどり着いた次第です。

 

 

 

何度か訪ねたことのある博物館ですけれど、「明治42年(1909)に文京区本郷に建てられた東京ガスの出張所の建物」(ガス灯館)と「明治45年(1912)に荒川区の千住に建てられた東京ガス千住工場の建物」(くらし館)とを移設復元した2棟の赤煉瓦建物は、なかなかに雰囲気あるなあと。

 

ただ、常設展示の方は変わりないのだろうと高をくくっておりましたところ、黎明期のガス事業と関わり深い渋沢栄一が新しい一万円札の顔になったりするのを機会と、リニューアルしたようで。すっかり渋沢栄一推しの展開になっておりましたよ。

 

 

ガス灯館の中、右手には若き日の渋沢栄一の等身大パネルが置かれてありましたけれど、150cmそこそこであったということですので、至って小柄。将軍慶喜の弟・徳川昭武に随行して出向いたパリ万博では、さぞかし上を見上げてばかりおったのではなかろうかと。かように見上げたもののひとつに、コンコルド広場でパリの夜を明るく照らすガス灯があったということで。

 

渋沢とガス事業とのその後の関わりは、別棟「くらし館」にある「渋沢栄一ギャラリー」というコーナー展示に詳しく紹介されておりましたですよ。

 

 

日本におけるガス事業は横浜を嚆矢として、次いで東京へ。東京では当初、渋沢も関係する東京会議所なる組織(江戸時代の江戸町会所の後身だそうな)が手掛けますが、1874年の事業開始以来どうにも需要者が増えず経営に苦しんだ末、2年後に事業は東京府瓦斯局に移管されることに。渋沢は瓦斯局長となります。

 

1885年には民間払い下げとなったガス事業経営のため、東京瓦斯会社が設立され、これまた渋沢が初代社長(当時の呼称は会長と)に就任するのですな。設立当初のガス契約者は「わずか343戸」だったそうですが、「1910年(明治43)には約12万6,000戸にまで増え」たのだとは、今さら言うまでもないことながら、渋沢の才覚は大したものだったのでありましょうねえ。

 

ちなみに以前ガスミュージアムに来て気付かされたことですが、元々ガスの利用法は「ガス灯」にあったわけで、もっぱら明かりを灯すためのものであったというのですな。それだけに、1887年に東京で電燈事業が始まりますと、しばらくはガス灯優位の状況は続いたものの、やがて明かりを灯すという点では電気に取って代わられることに。

 

ですが、早くも1896年段階で渋沢は欧米のガス事情調査として技師を派遣、その報告から「今後のガス需要は『熱源利用』が主流になる」と考えるに至り、一般家庭の炊事用としてガスを普及させる方向へ向かっていくと。さらには暖房器具、内風呂の普及にもまた。

 

 

ということで、くらし館には東京ガスが手掛けてきた熱源利用としての製品と変遷が、さまざまに展示されておりますですよ。ですが、気候温暖化の叫ばれる昨今、「ガスって要するに燃焼する熱源だから、CO2がたくさん出て…」とも。ま、ガスミュージアムは東京ガスの企業ミュージアムですので、そのあたりへの取り組みを紹介することも抜かりないようですな。

 

 

文系人間には小難しいことは分かりませんですが、「CO2から都市ガスをつくる」というのが取り組みの一つであるようで。そんな永久機関みたいな(?)ことができるのと思ってしまいますけれど、説明にはこんなふうに。

  1. 工場などから出たCO2を回収、同時に再生可能エネルギー由来の電気で水素をつくる
  2. CO2と水素を合成してメタンを作る(e-メタン)
  3. 都市ガスとして供給

「e-メタン」は「これまでの都市ガスと同じように使うことができ」、「既存のガス導管などの都市ガス供給設備やご家庭のガス機器もそのまま使用できる」のに、「CO2実質ゼロ」でもあると。「ほおほお!」と思うも、へそ曲がりな性質としては「きっとどこかに落とし穴が…」なんつうことを思ったり。

 

ま、渋沢栄一由来の企業としては、渋沢語録にある「できるだけ多くの人に、できるだけ多くの幸福を与えるように行動するのが、我々の義務である」と言う言葉を信奉しているだろうと思っておきましょうかね。くれぐれも「できるだけ多く」の範囲の考え方を誤らないようにしてもらいものですが…。

「あれこれと研究が進むというのは、こういうことなのであるなあ…」とまあ、そんなふうに思ったのでありますよ。

 

巨視的には、果てしないと思ってしまうほどに捉えどころの無い大きさの宇宙の、端の端の方で何が起こっているかが分かってきたり。それこそ、先日地上波で再放送されたNHK『コズミックフロント地動説 〜謎を追い続け、近代科学を生んだ人々の物語〜』で、宇宙のありようを世の中の人に納得させてしまい、それが故に長い長い間、天動説が信じられることになってしまったプトレマイオスの時代には、及びもつかない観測ができるようになってきている。

 

一方で微視的には、人体(だけではありませんが)の最小単位を細胞として、その働きのあれこれを大阪・高槻のJT生命誌研究館の展示で先年知るところとなりましたが、今やその最小単位たる細胞の中にぐぐいと迫って、中で動き回る数々の物質を調べるようなことになっているのであると。これまた先日の『NHKスペシャル 人体III 第1集 命の源 細胞内ワンダーランド』を見ていて、「う~む」となったわけで。

 

ちなみに(と番組の受け売りですが)ここで「物質」といったものには、いわゆる「命」は無いわけですね。ですが、動物たるヒトが生命を持って動き回る元の元が「物質」の働きによるのであるとは、ついつい考え込んでしまうところではありませんでしょうか。

 

物質の働きというと、(例えば混ぜ合わせるとか、人が手を加えることなどによって起きる)化学反応といったものを思い浮かべるも、物質そのものは動くものであって、動かされるものであろうと思うわけですね。それがさも動いているように見えるのは、番組で登場した風の力が動力減となって動いている(さも自立的動いているように見えるも、風に動かされている)模型を例として示しておりましたな。

 

つまり、自立的動くのかどうかが「命であるか」「命を持つものか」の分かれ目ともいえるわけながら、一個の人体として自立的に動き回っていると思っているヒトは、細かく細かく見ていきますと、生命を持って動いているとは言い難い物質の作用によって成り立っていることになる…となれば、ヒト、人体もまた動かされているということになってくるような。

 

人はそれぞれに「何かしらのことをやりたい」という欲を個々に抱えていて、それぞれの違いは「そりゃ、人それぞれでしょう」と思うわけですが、その根っこには自らの意図の及ばない、というかヒトの意図というものが形成される遥か以前、極小単位の物質が何かしらの作用として働いた結果の、最終的発露ということになりましょうかね。

 

人の抱える欲の中には「生きたい」というのがあって、このことは生命の根源と関わるような気もするところながら、生命の根源には生命でない物質があって…となりますと、いったいどこからが生命であるか、どこらへんで生きたいと思うことになるのであるか、結局のところはヒトという外形は生かされているのでは?とも。

 

そんなふうに思い至りますと、しばらく前にNHKの夜ドラで放送されていた『超人間要塞ヒロシ戦記』の人型要塞を思い出してしまったりも。もそっと知られたところに擬えれば『マジンガーZ』とか『機動戦士ガンダム』とかでしょうか。ともあれ、これらは皆、内部で人間が外形(人っぽいかロボット然としているかはともかく)を動かしているのですが、結局のところヒトとは動かす方ではなくして、動かされる方であったかと、思えてきたりするのですよね。

 

番組の中では、取り上げた科学的知見に触れるにつけ、「科学者ながら、神の存在を考えてしまうような…」的なことを山中伸弥京大教授がつぶやいていましたが、どうでしょうねえ。個人的にはそんなふうに思うことはなかったですなあ。それよりも、神がいるならその神はいったい何でできているのであるかと思ってしまいましたですよ(笑)。

 


 

 

というところで唐突ながら、野暮用がありまして(というわりには長いですが)明日(5/3)からしばしのお休みを頂戴いたします。予定としましては、5/9(金)に再登場かと。どうぞ皆さま、GW(の後半)を楽しくお過ごしくださいませ。

 

さてはて、東京・小金井市の江戸東京たてもの園で覗いてみた特別展『江戸東京のくらしと食べ物』(会期は6/15まで)を振り返っておるわけですが、4章立ての展示構成のうち「第1章 華開く江戸の食文化」「第2章 食文化の文明開化」とがそれぞれに長くなってしまいました。あとは「第3章 戦中戦後の食事情」と「第4章 外食産業の発達と食の多様化」が残っておるところながら、ここはちと足早に。

 

ここまではどんどんと日本の食生活が豊かになるといいますか、多様になってきたようすを窺い知ることになりましたけれど、戦中戦後の食事情となりますと、「食」以前に「食料」そのものが乏しくなっておりましょうから、推して知るべしの感はありますですね。

長びく戦争によって物資が不足する中、1942年(昭和17)、米をはじめ塩や味噌、醤油などが次々と配給制となり、食卓に暗い影を落としました。

 

解説パネルを見ますと、食料品を中心にマッチや衣類までさまざま、日常生活で用いる品々の使用が制限されたことが分かります。太平洋戦争開戦以前にしてすでに、このように米の節約を促す隣組回覧板が回っていたようで。

 

3日に1食はうどんやそば、パンなどを食べるよう呼びかけるほか、必ず実施することとして「完全に咀嚼すること」「過食しないこと」「残飯を出さないこと」を求めている。

「隣組」と言えば、♪とんとんとんからりと隣組~と、妙に明るく歌われる戦時歌謡を思い出して、歌詞の続きに「廻して頂戴 回覧板」などと地域の相互扶助を表しているようで、その実、時局に鑑みた相互監視組織ともなっていたのであったなあと。余談ながらこの歌の旋律をそのままに、TV番組『ドリフの大爆笑』(1977年放送開始)のオープニングで使われていたことを思いますと、そこはかとなく戦争の頃の空気といいましょうか、そんなものが残る時期でもあったのであるかと思ったり。

 

ともあれ、戦時中の食糧逼迫は大変なもの(といいつつ、軍部の倉庫には食べものが唸るほど蓄えられていたとはよく聞くところですなあ)であったわけですが、戦後になってもすぐに状況が好転するでなく、そこへ持ち込まれたのが米国からの小麦粉でもあったのですよね。

 

 

農林省(当時)からして輸入食糧をうまく使う方法を伝授しようとしていたと。小麦粉を活用したパンの作り方やトウモロコシ粉の利用法が記されておりますな。個人的に、こうした状況を色濃く反映していたのは学校給食であるかなと。

 

昨今の学校給食は米飯が出てくるのが当然のようになっておりましょうけれど、1960~70年代前半(?)くらいはもっぱらパン食でありましたな。やけに耳の部分が固い食パンが毎日出されたものですから、目先の変わったコッペパン(砂糖をまぶした揚げパンであることが多かった)が出ると、些か色めき立ったような。やはり粉もので「ソフトめん」なるうどんまがい?のものも出てきたような。

 

後の時代のこととしてドラマや映画の『おいしい給食』に描かれるほどの魅力を、当時は全く感じておらなかった(個人の見解です)ものの、食生活の点では米飯一辺倒から多様化を促すという効果は確かにあったことでしょう。

 

そうした流れを受けて、国も減反政策を展開して現在に至る。このところ急浮上している米不足は、結局のところこの流れの果てに生じたものでもありましょうか。で、各家庭では自発的に(なにせ米の値段が高いので)粉ものへの傾斜度を増しているとは、「歴史は繰り返す」と言っては言い過ぎでしょうけれどね。

 

で、展示の最終章(第4章)は「外食産業の発達と食の多様化」と。米飯一辺倒ではなくなっていったこともあり、日本の食事情は多様化の一途をたどりますな。外食を含めて、日本にいながらにして世界じゅうの料理を味わうことができるようにもなっていく。先駆けとしては紹介されていたはファミレスとファストフードの展開でありましたよ。ちなみに、スカイラーク第1号店は1970年に、マクドナルドの第1号店は1971年にオープンしたと。

 

 

外食には「おでかけ」的なお楽しみも伴うことで伸びが見られた一方で、自宅での食事もまたバリエーションも富むものとなっていきましたなあ。江戸時代ではありませんが、そこに寄与したのはやはりレシピ本、グルメ雑誌の数々でもありましょうね。

 

 

 

 

 

今となっては、かかる情報はインターネット経由で得ることから雑誌そのものの存続が危ぶまれることになってますが、それはまた別の話。本展冒頭の「ごあいさつ」にはこんな一文がありましたなあ。

今日の日本の食文化は、江戸庶民の食が西洋料理と出会い、うまく混ざり合って新しい食文化へと進化し、多様化してきたものです。人々の「おいしい」の変遷に思いをはせていただければ幸いです。

日本の文化受容にはブラックホールのようなところがあって、食文化にも同様のことが言えましょう。それだけに、これから先さらにガラパゴス的進化が起こっていきそうに思いますが、果たしてどんなことになっていきますかね…。