先日、チューバ四重奏を聴きに川崎へ出かけた折り、久しぶりに東海道かわさき宿交流館に立ち寄ったのでありますよ。こんな企画展が開催中であると聞き及んだものでして。

 

 

企画展「懐かしき昭和の店先」というもの。フライヤーにはこんな紹介がありますな。

スーパーマーケットやコンビニがなかった時代、人々はどのような暮らしをしていたのか…。細部まで精巧に再現されたミニチュア模型から、昭和時代の生活を感じてみてください。

手工芸作家であるという小嶋敏子という方が「素朴でひなびた味わいをもつ紙粘土と、少しばかりの和紙、木片、端布を使い、家事の合い間に作りあげたもの」ということで、写真などに頼るでなく自らの記憶の中にあるものを形にしていったものであるそうな。ひとつひとつの作品は間口で30㎝ほどの小ささであるところながら、細かな手作業をよくまあ!と。もちろん、懐かしさを醸すには十二分な出来でありましたよ。

 

ただ、残念ながら展示室内では写真不可でしたので、「ほお~」とか言いつつその場で見入るばかりだったわけですが、作者が以前発表した『とうきょう下町 昔のお店あれこれ』という写真集が会場では特売価格の500円で販売されていて、数量限定とありましたので即ゲットした次第です。

 

 

元の価格は3,000円ですけれど、おそらくは滞留在庫として長らくしまい込まれていたのでもありましょう、少々の黄ばみや汚れがあるとのお断りがあるも、古本だと思えばと。ちなみに帰宅後にネット検索すると、古本価格でも990円てなあたりの価格設定を見かけたものですから、まずまずの買物であったかと。昨今の昭和レトロブームの風潮にあっては、再評価されたりするかもしれませんし。

 

ですが、いわゆる昭和レトロブームとされるのは若者が目をつけているところであって、彼らにとって未経験の昔とは昭和の末期から平成初期までをも含んだ時代のことのようで。それから比べると、本展の作品は明らかにもそっと古い。昭和のお店の一つの典型として思い浮かべる看板建築の類いが展示ではひとつも見かけないところからして、フライヤーの紹介にあった「スーパーマーケットやコンビニがなかった時代」どころではない昔なのだろうなあと、個人的にも。

 

後に、入手した本のあとがきを目にするに及んで「ああ、やっぱり」と思ったものでありますよ。なにせ書き出しのところに「昭和十年。テレビも学習塾もなかった時代です」と、はっきり書いてあるわけで。ですので、フライヤーの紹介は若者世代の昭和レトロブーマーには少々のミスリードになるかもしれませんですね。(受け止め方は年齢にもよりましょうが)スーパーやコンビニが無い時代と言われれば、さほど遠からぬとも思えますが、テレビも無いと言われるとざっくり戦後ではなかろうと思いますし。

 

そんなわけで、作品イメージがぴったりくるのは大正14年生まれという作者と同じ世代から昭和ひとケタ世代なのかも。昭和100年にあたるという今年2025年には100歳前後になっている方々こそ「おお、懐かしい」となるのかもしれません…ということで、そのうち両親に見せてやろうと思っておりますよ。

 

となあ、実はかような時代を写したものではあるも、昭和半ばの子供にとっても懐かしさを感じるところは確かにあるのですなあ。戦争の時代を経て昭和31年(1956年)には「もはや戦後ではない」と評されるようになってなお、戦前の、あるいは戦後であることの残り香は先の大阪万博(1970年)の頃までは確実にあったろうと思うものですから。

 

それだけに、(展覧会では解説に相当する説明文は無いのですが)本の中で作品写真に寄せてそれぞれの店ごと、作者が寄せる一文には「そうだったねえ、そんなふうでもあったねえ」と思えることがちらほら見受けられたものなのですね。例えば、「酒屋」を再現した作品に寄せた「味噌に醤油、酒や塩も、量り売りが幅を利かせていました」という述懐に接しますと、「自分ことではソースを量り売りしてもらうのに、サントリーの角瓶(ウイスキー)の空き瓶を使ってたっけなぁ」とか。

 

何ぶんにも(フライヤーと本の表紙以外は)写真がありませんのでどれほど共感あるところなのか、はたまた写真があったにせよ、年代によって共感度合いも大きく異なるところでしょうけれどね。

 

ともあれ、その後に長い年月を経るうち、基本的には便利に、楽にという方向性で推移してきたはずであるのに、どうやら思惑違いの方向に進んでいたりするのでは…と思えたりすることに、懐かしさは気付かせてくれるところもあるのですなあ。

さて、宮城・松島の瑞巌寺を訪ねて本堂の内部を拝見する、その前に宝物館になっております青龍殿に少々お邪魔した次第。ですが、(よくあるように)館内は一切撮影不可とあって、いささか振り返りがしにくいですなあ。取り敢えず、入口脇にあって「これは撮ってもいいですよ」というものくらいはUPしておくとしましょうかね。

 

 

左側は「本堂最上部の大棟左端に設置されていた」という大鬼瓦であると。経年劣化が著しいため、修復の際にレプリカと置き換えたそうな。調査の結果、創建期(慶長十四年、1609年)のものと判明したというからには、伊達政宗の眼鏡に適う意匠なのかもですなあ。

 

右側は打って変わって新しい2012年に造られた彫刻作品。東日本大震災翌年の制作だけに、復興支援の意味合いがあるのでしょう、木彫の原木に使用されたのは「震災の津波塩害により伐採された瑞巌寺参道の杉」だということでありますよ。これを用いて、チェーンソーアーティストとして世界で数々の受賞歴を誇る城所ケイジという方が「登竜」を彫り出した(削り出した?)とは、先に見かけた「登竜門」に因むものでありましょう。

 

ところで撮影不可ではあるも、宝物館の館内では企画展「師弟の絆 ―こころでつながる禅の教え―」が開催されておりましたですよ。(会期は2025年1月19日で終了)

 

仏教は今から約2,500年前、釈尊によって開かれた教えで、様々な宗派があります。瑞巌寺は現在、臨済宗妙心寺派に属しており、いわゆる禅宗と呼ばれる宗派です。
禅宗は特定の本尊と経典を持たないことが特徴で、その教えは、心から心へと直接伝えられるものであるとする「以心伝心」により、脈々と受け嗣がれてきました。

本展フライヤー裏面の紹介にはこうありまして、表面には教えが一番上(なんだか幽霊みたいな形に見えますが)の中国禅宗祖師・菩提達磨大師に始まり臨済宗開祖・臨済義玄禅師から妙心寺開山・関山慧玄禅師へ、そしてさらに瑞巌寺128世・加藤隆芳老師へと受け継がれるようすが示されておるのですなあ。

 

展示物の中には、文字情報だけではあるも、あたかも家系図のように僧侶の名前が書き連ねてある資料もありましたですよ。一子相伝というわけでもないのでしょうけれど、そんな想像もしてしまうような長い長い系図です。

 

日本に禅宗が紹介されたのは鎌倉時代ですけれど、系図を見るに臨済宗と曹洞宗と、栄西と道元を遥かに遡るところにそれぞれの開祖がいるようで、中国では古くから枝分かれしていたのであったかと。中国に渡った僧が近ごろ流行りの新機軸を仕入れてきましたというわけではなかったのでしたか。

 

加えて、日本に臨済宗を伝えたのは栄西で…ということだけは記憶するところながら、瑞巌寺はもとより今でも臨済宗のお寺さんはあちらこちらにありますから、その教えが脈々と…と思えば、直接に栄西に発する教えはもはや途絶えてしまっているのであるとか。

 

ですので、今に伝わる臨済宗は栄西とは別の系統なわけで、栄西が中国で教え受けたところから数代前に遡ったところの兄弟弟子みたいな枝分かれの果ての果てという流れが、日本ではあの!一休宗純や「心頭滅却すれば…」の快川紹喜、伊達政宗の師であった 虎哉宗乙、はたまた臨済宗中興の祖であるらしい白隠慧鶴へとつながっていくのだそうでありますよ。

 

仏教のことはとんともの知らずでして、「禅宗は特定の本尊と経典を持たないことが特徴」とはここで初めて認識したような次第。それでも、いわゆる名僧と言われるような歴史上の人物の名前だけは結構聞き覚えがあるものだと思ったものなのでありました。

先ごろ「信玄公祭り」を覗いてきた…というよりも実際は甲府在住の友人と飲んできたわけですが、甲府まで出向いたついでにひとつ立ち寄りを。先月のはじめ、石和温泉に出向いた際、駅の観光案内所で展覧会告知のフライヤーを目にしていたものですから、折を見て出かけようと思っていたところでして。ひと月経って、折しも桜満開の山梨県立博物館を訪ねたのでありましたよ。

 

 

その山梨県立博物館では開館20周年記念特別展として『武田勝頼-日本に隠れなき弓取』展が開催中。武田勝頼といえば、信玄の衣鉢を継ぐ大将とも、武田を滅亡に至らしめた凡将とも言われたりするところながら、しかしてその実体は?てなあたり、近年の研究で何かしらの発見があったりしたかいね?と。何かと「え、そうなの?」みたいなことがあったりするものですのでね。

 

 

そも甲斐武田の歴史を知る史料とされる『甲陽軍鑑』巻第六(命期の巻)には勝頼のことを「強過ぎたる大将」と記されているそうな。ただ、この「強過ぎる」とはどうやら誉め言葉ではないようで、国を滅ぼしてしまう大将の四つの類型のひとつとして挙がっているのが「強過ぎる大将」であると。現代語訳の展示解説にはこんなふうにありましたな。

父信玄を越えようとして弱みを見せず、何事にも強く働こうとするあまりに、長篠合戦で大敗して国を危うくしている。

このあたりの記述が後の勝頼像に影響してきたのでもあろうかと。ただ、先に解説書を読んだ『吾妻鏡』でもそうですが、『甲陽軍鑑』は必ずしも鵜呑みにはできない記述もあるようで、歴史のありようを後世に誤った思い込みをさせるところもあったわけですね。名流武田の滅亡を、勝頼一身に背負わせてしまっているような。

 

では、勝頼の時代、敵対していた武将たちはどう見ていたのか。そもそも本展の副題にある「日本に隠れなき弓取」と評したのは、最終的に武田を滅亡させた織田信長その人であると伝わるそうな。徳川家康に仕えた大久保忠教の著作『三河物語』に書かれているのであると。

 

ま、これは伝聞にすぎないかもしれないとして、展示に見る「織田信長書状(天正二年六月二十九日付)」を見れば、信長が「勝頼侮り難し」と見ていたことが分かりますなあ。やはり現代語訳の展示解説にはこのように。

勝頼は若輩であるが、信玄の掟を守り謀略を駆使するので油断できない。五畿内の備えを疎かにしてでも、甲斐・信濃への戦いに集中すべきという意見はもっともだ。

解説では書状の宛先になっている上杉謙信もまた同意見であると説明されるのですが、上の文を読む限り、勝頼に高い評価を信長と謙信のどちらが先に言ってどちらが肯ったのか、判然としないように思うものの、ともあれ、当時その名を広く知れ渡らせていた信長と謙信のいずれもが勝頼に「なめたらあかん」という意識を持っていたことは確かなようで。

 

ちなみに五畿内方面には将軍足利義昭やら六角氏、三好氏やら曲者がいたわけですが、そっちの備えを疎かにしてでもとは、生半可には対抗できないという意識ですものね。

 

そうであるにも関わらず、後世の勝頼評価が地に落ちるのは偏に長篠合戦の大敗によるものとなりましょうか。ただしこれも従来の見方では「鉄砲を駆使した信長の革新性」VS.「騎馬隊での突撃を繰り返す武田の古さ」という点ばかりが注目され、結果として「勝頼の指揮官としての低能」さが強調されることになっているわけですが、近年では、鉄砲VS.騎馬というような単純な図式で見ることは改められつつあるとか。

 

勝敗の分かれ目として、織田方が鉄砲隊を備えるに加えて城構えのような陣地を造り上げていたことと、勝頼が敵軍を過小評価していたということはありましょうか。決戦前日になった段階でも「武田勝頼書状(天正三年五月二十日付)」には「信長・家康ともに討ち果たせるだろう」と書かれてあるということで。ま、織田方が勝頼侮り難しと見て入念に準備したのに対して、勝頼の方はなめていたのですから、ちと凡将感が漂いますが…。勝頼を下げ、信長を上げる材料として鉄砲隊のひらめき登用がことさらに語り伝えられてきたのでもありましょう。

 

ともあれ、天正三年の長篠合戦で大敗を喫するや、「ああ、名門甲斐源氏もこれまでか…」てな感じに歴史の表舞台から武田は消えていくように思えるところながら、実際に織田・徳川連合軍に信濃・甲斐へと侵攻されて武田が滅亡するのは天正十年(1582年)のことですので、勝頼は7年ほどの間、ふんばりを見せたのですなあ。

 

上杉謙信との和睦、安芸毛利氏・伊予河野氏とも同盟、北条氏とは甲相同盟を強化などなど、「信長に東西から対峙する体制」構築に余念が無かったということです。しかしながら、謙信没後に越後で生じた御館の乱の紆余曲折を経て勝頼と上杉景勝は誼を通じ、甲越同盟が成立することになりますと、長年大事にしてきた甲相同盟が崩壊してしまうことに(なんとなれば、御館の乱で上杉景勝と敵対した上杉景虎は北条氏康の息子であったわけで)。

 

そんなこんなの中、越後の一部をも得た勝頼の版図は太平洋と日本海とを跨いで中部日本に大きく広がるものともなった時期があったということですので、長篠合戦後に零落傾向となっているのに新しく新府城構想を立ち上げるとはこれまた無謀な…てな印象を持つのは誤りだったのでしたな。一時であるにもせよ、確固たる勢力であったのは事実ですから、それを見据えた城造り、さらには国府造りだったようで。

 

てなことで、すぐさま零落したわけではない武田勝頼、振り返ってみるに滅亡に至る一番のポイントは、長篠合戦で負けたということ以上に、その戦いで武田軍団子飼いの将を一度にたくさん失ったことにもあるような。

 

当初は信玄の嫡男・義信の陰で「諏方腹」などと言われていた四郎勝頼は元々家臣団のとりまとめに苦労していたようですが、信玄の意向と思えばこそ付き従ってきた武将たちもいたことでしょうに。残った武将たちも信玄が進めた甲相同盟を破綻させたうつけにも見えたでしょうか。

 

一昨年(2023年)秋、折りあって甲斐大和に武田滅亡の地にある景徳院を訪ねましたけれど、武田家の菩提を弔うべくこの寺を建てたのが徳川家康であったとは…。山梨県の県立博物館の展示ですので、いささかなりとも「勝頼寄り?」と思ったりもするものの、それにしても勝頼無念…てな気がしてきたものでなのでありましたよ。

さまざまなアンサンブルの妙を楽しめるミューザ川崎のランチタイムコンサート。年度が替わって新しく、2025年度シーズンがスタートとなったものですから、そそくさと出かけていったのですな。今回企画もまた大層意表を突いたものでありましたよ。

 

 

フライヤーに「前代未聞のチューバ四重奏」とありますが、空前絶後であるかは知る由もないものの、確かに個人的には前代未聞であるような。2年ほど前にチューバ・ソロのリサイタルに出かけた際にも「珍しい」と言いましたですが、チューバばかり4本集まるというのはレアものでしょうなあ。

 

さりながら、このレアと思ったチューバ四重奏、ホール主催の奇を衒ったアンサンブルの要請に四人のチューバ奏者が集まったのであるかとも思えば、実のところ「TUBASSADORS(チューバサダーズ)」というユニット名で活動する常設団体であるようで…というからには、個人的には初めて知った団体ながら、ステージから演奏者が「チューバサダーズを知って来てくれた方は?」と問いかけますと結構な拍手が起こっておりましたよ。Youtube効果のようですなあ。

 

ともあれ、レアな編成であることには間違いないところなので、予めこの編成用に書かれた楽曲がそうあるでなし、今回演奏された4曲はアレンジもの3曲と新たに委嘱された新作1曲という構成でありました。

 

まず最初の「シング・シング・シング」は誰もが聞き覚えのあるであろうスウィング・ジャズの名曲ですけれど、いやいやなかなかに低音域に偏ったところで頑張っておりました。ただ、脳裡に思い浮かんでくるのは象さんたちのダンス姿。決してのっそりではなくして、ディズニーの『ファンタジア』の中でも描かれそうな、大きな象がアクロバティックな動きを展開するような。

 

こう言いますといささか揶揄する感ありと受け止められるかもしれませんが、そういう意図ではありませんで、やっぱり低域の音色が醸すイメージというのはどうしても重厚長大方向に触れがちなのだろうということでして、それの良し悪しではありませんですよ。

 

えてしてアンサンブルは高音域から低音域までをカバーする組み合わせでやる方が音楽を作りやすいであろうところへ、わざわざこの編成で臨むのはいわば挑戦でもあるわけですね。ですから、その楽器でイメージする従来色を払拭するような音楽を聴かせたいといった心意気があるのでしょう。その心意気たるや良し!です。

 

ですが、チューバ従来のイメージというのも実は楽器の個性として大事にしていいことなのだろうなとは思ったりもしたもので、一転して2曲目のオリジナルは流れるメロディーを配した穏やかな曲ながら、旋律は「ユーフォニアムにもより馴染むのでは…」とも。

 

ここまでの2曲で抱いたそれぞれの印象は、続くガーシュインの『ラプソディー・イン・ブルー』(もちろん全編、チューバ四重奏版)や吹奏楽の定番曲『宝島』でも同様に思えたものです。出演者メッセージに「チューバの持つ可能性を感じていただければ幸いです」とある楽器の可能性は確かに示された一方で、果敢に限界に挑むこととは別に、チューバの特性そのものを活かす方向で挑戦を続けていく方向もあるのではと。

 

最後の『宝島』の演奏に先立って、「最後の曲はアンコールだと思って、ノリノリでお送りします」的な言葉が聴かれたましたけれど、ノリノリ感は音楽そのものによって生ずるとはいえ、ライブの場合にはプレーヤーたちが演奏している姿からその感覚が伝わってこそなおのことと思うわけですが、如何せん、大きな楽器を抱え込んでいる分、せいぜい体が少々左右に触れるくらいの感じ。なんだか「無理しなくていいのに…」と思えたりも。

 

と、結局のところ「揶揄しているわけでなない」といいつつもそれっぽい語り口になっているかもですが、先にも触れましたように「心意気たるや良し!」とも思っていますので、目指す方向性として個人的に思うところとのすれ違いなんでしょうね、きっと。このアンサンブルが現在のメンバーでチューバ四重奏という形で活動するようになって2年余りらしいとなれば、今後どうなっていくのか、楽しみでもありますですよ。

 

…ということで、瑞巌寺参道をたどってきまして、ここから先は有料エリアという境まで到達しました。塀の向う側、すぐ右手にあります受付で拝観料を納めてと。

 

 

 

まっすぐ進めば、中門の奥に本堂ということになります。すっくと立ちあがる二本の大木に挟まれて、なかなかの見目となっておりますな。

 

 

瑞巌寺の中にあってこの中門だけが杮葺きなのだとか。「伊達政宗の命による」そうですが、政宗のこだわりがあったのですかね。ともあれ、この中門を潜り抜けて本堂へアプローチすることはできないのですなあ。

 

 

白砂が敷き詰められて、伊達家の紋所(のひとつ)「丸に三引き両」が描かれていたりしますので。ちなみに伊達家が使った家紋は8種類もあるのだそうですなあ。「丸に三引き両」紋はご先祖の伊達朝宗が奥州藤原氏討伐の際に軍功ありとして、源頼朝から与えられたとか。他にも与えられた家紋があるということは、それだけ折々の軍功があったということのようでありますよ。

 

と、本堂内を見て回るには右の方へと回り込んで行くことになりますので、取り敢えずそちらへ…と思えば、中門に向かって右手には「玄関」とある札が置かれてありまして、扁額には「登龍」とあるとなれば、「おお、登竜門ね」と。

 

 

でもまだ、こちらが入口ではないと。門は固く閉ざされておりますし。

 

 

もそっと手前から小さな門を潜り抜けて左手へ進めば本堂の拝観入口となる…のですが、その場にどおんと来訪者を迎えていたのは「庫裡」なのですよね。上の写真では左側に見えている大きな建物、これが台所ですか?!と。これだけでも国宝の建築物だというのですなあ。

 

ところで、庫裡の真向かいにある青龍殿という建物は宝物館になっておりまして、「伊達家関連の絵画・茶器、臨済禅文化が創出した墨跡、寄進された絵画・書、松島に関する資料等を中心に展示する」(瑞巌寺HP)場であるとなれば、こちらもまた覗いてみましょうかねと。

 

 

取り敢えずは先に宝物館の方を覗いたわけですが、次回はちと宝物館の展示のお話から続けてまいることにいたします。