江戸東京たてもの園で開催中の特別展『江戸東京のくらしと食べ物』(会期は6/15まで)は4章立ての構成と言って、「第1章 華開く江戸の食文化」の部分だけで振り返りが長くなってしまいました。

 

ともあれ、続く第2章は「食文化の文明開化」でして、他のさまざまな物事同様、食の世界にも西洋が流入してくるわけですね。明治政府の欧化政策は時に極端だったりしますけれど、こんなことまで行われたとは。

…西洋諸国との外交を円滑に進めるために、1873年(明治6)に政府はフランス料理を公式の料理として採用し、そして国民の体位の向上を図る目的もあいまって、長い歴史の中で忌避されていた肉食を推奨しました。

後に「和食」がユネスコ無形文化遺産となるなどとは、明治政府ではゆめゆめ考えることもなく、フランス料理を公式料理にしていたとは、これは知りませなんだ。もっとも、広くあまねく一般家庭までフランス料理の導入を推し進めたわけではなかったでしょうし、庶民向けには肉食を勧めたてなところなのでしょうけれど。

 

ですが、「長い歴史の中で忌避されていた肉食」とはいえ、動物の肉を全く食してこなかったわけではないこともよく知られておるわけで。下の絵は、安政年間に二代目広重が描いた景色(今なら銀座一丁目辺りになると)ですけれど、大きく「山くじら」の看板を掲げた店が見えますし。

 

江戸時代、肉食は忌避される傾向にあったが、まったく食べられなかったわけではなかった。鳥や猪、鹿などの肉が「薬食い」と称して食されていた。文化・文政年間(1804~30年)以降は、猪鍋を出す「ももんじ屋」が出現し、天保年間(1830~44年)頃には獣の肉を食べさせる店もかなり増えた。当時の人々は、鹿を「もみじ」、猪を「山くじら」や「牡丹」などと言い換えるなどして、肉食が行われていた。

とはいえ、日米和親条約に基づいて安政三年(1856年)、駐日領事のタウンゼント・ハリスが下田にやってきた頃には牛を食するところまでは(一部の産地を覗いて)行っていなかったようですな。ハリスにとっては普通の食生活どおり、「牛肉が食べたい、牛乳が飲みたい」と訴えたことから、下田の玉泉寺には「日本最初の屠殺場の跡」というのがあったりするわけで。

 

ですので、ここでの肉食の広まりはおよそ牛肉のことでもありましょう。国木田独歩の『牛肉と馬鈴薯』で知られるように牛鍋屋が繁盛する一方、家庭料理としても肉を使ったレシピ本が出たりするようになるのですな。

 

 

この『西洋料理通』という本は、在留英国人の資料をともに仮名垣魯文が著して、明治5年(1872年)に発表されたそうですけれど、左側ページにはミートパイの作り方が見えておりますね。ちなみに右側の方はいわゆるカレーライスの作り方でして、「十ミニュートの間程緩火を以て…煮る」てな和洋折衷の表現は

明治っぽいですなあ(単に、十分煮込むといえばいいものを…)。

 

そもそもは西洋料理として入って来たものが、そんなこんなの過程を経て広まる中では、本格的な西洋料理とは別に、あたかも擬洋風建築が建てられたように日本独自の受容として「洋食」なるものも誕生してくると。で、明治後期から大正にかけて、」そうした料理のレシピ本もまた広く出回ることになったようおですな。

 

 

当然に西洋料理と洋食、もはや混然一体となって?提供するお店も増えてくることになりますね。解説の中には、今ではすっかり老舗感に溢れた店名が並んでおりますよ。

 

 

ところで、今に及ぶも「洋食」らしい味付けとして想起する調味料が日本で作られるようになったのであると。それが「ケチャップ」と「ソース」ということで。本来はケチャップにもソースにもいろいろなものがあるところながら、入ってきた経緯からして日本では、ケチャップと言えば「トマトケチャップ」と思ってしまいますな。ソースにしても、「ソース」と決め打ち名前のソースは無いものの、日本では容易に「ソース」なるものが浮かんでしまうという。それが反って洋食を洋食たらしめているのでもあろうかと。

 

 

余談ながら、明治末から大正年間には化学調味料『味の素』やマヨネーズが製造販売されるようになったということで、日本における食文化は和洋折衷を消化して独自発展を遂げ続けてきていたわけですが、やがて日本の食事情は極めて貧しい状態に陥ってしまいますですね。展示の第3章は「戦中戦後の食事情」となりますが、それはまたこの次に終章の第4章と併せて振り返ることにいたしましょう。