千葉県野田市 が醤油の町であることから先日までしばらく醤油絡みの話が続き、
いささか飽き飽きしてくるところでありますけれど、醤油を抜きには日本の食事は成り立ちにくいですなあ。


そんな日本食、「和食」はユネスコの無形文化遺産に登録されたりしておりますが、
由縁のひとつにはやはり独自性と言いますか、そうしたことが預かっているのではなかろうかと。

そうした辺りのことを含め、日本の食文化を通史で語ってくれているのが
「日本の食文化史」でありました。これは面白い本でしたですよ。


日本の食文化史――旧石器時代から現代まで/石毛 直道


語り起こしは縄文、弥生というところからですけれど、
その頃からしてすでに日本(そういう国はありませんから、地理的なイメージですが)には
大陸から、あるいは朝鮮半島を経由してさまざまな文化を受容してきたわけでありますね。

その中には当然にして食文化にあたるものもあったわけです。


遣唐使などを派遣していた頃には相当に積極的に受け入れを図ったでしょうし、
それが菅原道真の建言で無くなった後も、仏教の渡来僧などを通じて入ってくる。
そうしたものを取り入れ、融合し、さらには工夫も加えて

だんだんと日本らしい食といったものが出来ていったのですなあ。


ですが、そのままでは大陸文化の二番煎じともなろうところが、
ひとつの転機は江戸時代の鎖国でもあるようで。
何しろ外来の文化に対しても戸を閉ざしているわけですから。


全く何もかも入ってこないとは言えないでしょうけれど、
二百数十年にわたって食事にしても外では外なりに変化、進化を遂げる中、
日本ではそれまでの食文化を熟成していくという期間となった…

つまりはガラパゴス化したわけですな。


これが明治になって西洋文化がどんどん入り込んでくるようになったとき、
それまで仏教、神道によって忌避されてきた肉食も解禁されたりすることになりますが、
ここでも結果的に「和食」がガラパゴス化したまま生き延びることができたのは、
こんなこともあったようです。

肉食の復活と、欧米の食品や料理の導入といった外部からの文明の挑戦にたいして、…高級料理店は伝統的素材と技術を変化させることをきらい、江戸時代末期に完成されたシステムをそのまま固定化し、みずから化石化することによって、伝統的なシステムをまもる方向にむかったのである。

この伝統を守る路線ができた一方で、積極的に受容することもあったわけで、
それには別の路線が用意されることになった。要するに「洋食屋」の存在でありますね。


1880年代後半から「ホテルやレストランで西洋料理を習った日本人コックたち」が

開業し始めたという「洋食屋」では、西洋料理を「日本人の嗜好にあわせて変形さ」せて

提供したという。


こちらの路線があったればこそと言っていいのかですが、
伝統路線が侵食されずに温存することもできたのではないかと。


ちなみに「このような洋食屋での主要な料理」としては、ライスカレー、ハヤシライス、

チキンライス、オムレツ、ビフテキ、トンカツ、コロッケ、フライなどなどだそうで、
和食ではないことから洋食とはなりますが、かといってこれが西洋料理そのものではあるとは
とても言えないものばかりではなかろうかと。


以前、神田の洋食屋で夏目漱石 も食したという「洋風かきあげ」なる品を食したですが、
これなぞまさに「洋食」でありましょう。


当時、和食には醤油を多用するのに対して、
洋食にはウスターソースをまるで醤油のようにかけて食していたようなのですけれど、
「洋風かきあげ」にはウスターソースをじゃぶじゃぶ掛けたくなったことを思い出しましたですよ。


とまあ、何とも大胆な端折り方で縄文から明治まで駆け抜けただけでも、
何となく日本食の独自性が分かるような気がするではありませんか。


で、後は少々、食事にまつわる言葉で語源が紐解かれていたあたりにふれようかと。
語源など考えてもみずに、日常的に使っている言葉にも当然に謂われがあるわけで、
まずは「台所」であります。

…平安時代の貴族の宴会には、「台盤」という食卓がもちいられた。…貴族の邸宅で台盤を置き、調理や配膳をする部屋を台盤所といったのが、「台所」の語源である。

次いで、本来の意味とは大逆転しているっぽい「大盤ぶるまい」という言葉ですね。

正月に将軍が有力な武士たちにふるまった宴会の形式は「埦飯(おうばん)」であった。

…鎌倉時代の埦飯とは木椀に盛った飯のことであり、それにアワビを薄く細長く切った「打鮑(熨斗鮑)」、海月、梅干に塩と酢を添えて、盆状の食膳である折敷にのせただけの簡単な食事である。それでも、江戸時代の民衆の酒宴を「椀飯振る舞い」とよぶことにひきつがれ、現在では気前よくおごることを「大盤ぶるまい」という。

お次もまた今ではすっかり意味するところが変わってしまったと思われる「懐石」です。

茶会の前半は「懐石」の食事が中心となる。修行中の禅僧が、温めた石を布で巻き懐にいれて身体を温めたのが、懐石の語源である。同様に、身体を温める程度の軽い料理という意味で、茶会の食事を懐石という。あとで飲む濃厚な茶の刺激をやわらげるために、あらかじめ食べておく軽い食事である。利休は懐石として豪華な食事を供することをいましめ、当時の宴会にくらべいちじるしく質素な、米飯と汁に、三品の副食物を供する「一汁三菜」の献立がのぞましいとした。

先に触れましたように肉食の解禁は明治になってからですが、「スキヤキ」の語源はこんなふう。

…肉料理専用の鍋をさだめ、肉食によるケガレが伝染しないように、その鍋では他の日常の料理をしない家庭もあった。農具のスキ(鋤)の金属部分をとりはずして、火にかけて魚や豆腐を焼くことは江戸時代にもおこなわれたが、関西では日常料理の鍋が獣肉のケガレに汚染されないように、牛肉はスキの金属部分で料理したので、「スキヤキ(鋤焼き)」という名称になったという。

続いては「おやつ」は何故「おやつ」なのか。

十七世紀はじめになると、抹茶ではなく葉茶を飲むことが普及する。茶の木は日本のおおくの地方で栽培可能なので、農民たちは畑の一郭に茶の木を植えて、自家製の茶を飲むようになり、茶が国民飲料になったのである。
日常的に茶を飲むようになると、八つ時(午後二時頃)の間食に、茶と菓子が供されるようになり、これを「おやつ」というようになった。

すでにご存知という方もおられましょうけれど、個人的には「そうであったか…」てなもので。
なんだか語源辞典の引用みたいになってしまったものの、これらの記述は
あくまで日本の食文化の変遷を辿る中で出てきたというだけのこと。
どうです、日本食文化の通史にかぶり付いてみたくなったのではありませんか(笑)。


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