あれやこれやの見聞でもって、このところ浮世絵話が多くなっておりましたですが、それも今回でひと区切り(のはず)。山形県天童市の広重美術館で見た企画展(出かけたときに開催されていた展覧会はすでに会期終了)を振り返る続きでありまして。「諸国名所めぐり」と題した、次の展示コーナーへと移ります。
歌川広重は名所絵を「一説に千点以上も描いた」とのこと。その一端を集めたコーナーということになりましょう。『東海道五十三次』や『名所江戸百景』は有名過ぎるせいか、ここで最も多い点数が展示されていたのは『六十余州名所図会』のシリーズでありましたよ。
昔(といっても昭和ですが)三波春夫が♪六十余州、しゃしゃんとね~と歌ったりしてましたけれど、要するに六十余州はいわば日本全国のことですな。今で言えば都道府県ごとひとつひとつに名所を選び出して描いたものであると。つうことは、広重もまた旅に明け暮れて…とは早合点でありまして、解説にはこのように。
…(現地を訪ねて得た)さまざまなスケッチを元に描いたと思いたくなりますが、そこは交通手段の乏しい江戸時代のこと。実際に赴くことが難しい遠方の地は、名所図絵などの版本を種として、新鮮味と説得力のある一枚に仕上げています。
要するに「講釈師、見て来たような…」の世界でもあるわけですが、広重としては「細工は流々仕上げを御覧じろ」てなところかも。展示されていた「越後 親しらず」、「上野 榛名山雪中」、「飛騨 籠わたし」などなど、「高い臨場感と豊かな抒情性を併せ持つ景色は、未だ見る地への憧れを誘います」とはまさしくその通りかと。
ただ、さすがに先行した「名所図絵などの版本を種にした」とはいえ、大きな典拠とされた『山水奇観』は、「淵上旭江が23年の歳月をかけて実際に諸国を歩き写生したものが基となっており、正確な描写が特徴」ということですので、また聞きのまた聞きてなレベルではなかったようですな。
で、お次はやっぱり広重で忘れてならないとばかり、「東海道五十三次の旅」というコーナーが続きます。天保四年(1833年)刊行の保永堂版の大ヒット以来、「東海道シリーズは広重の代名詞となり、生涯で二十種を超える数を描」いたということでありますよ。展示はそこから各種シリーズ織り交ぜて数点出てましたが、思うに東海道シリーズはやはり保永堂版に敵うものはないであろうなあと、個人的に。
さてと、話はようやっと「広重は五人いた…」というところへ。歌川広重といえば即ち、一般に初代を指しているものと思いますけれど、二代や三代がいてそれらの作品もあちこちの展覧会で多少見かけたことはあるわけですが、四代目、五代目までいたのでしたか…。
名所風景画の絵師として一時代を築いた初代広重亡きあと、周囲あるいは世間は偉大な名跡を継承する者を求めました。そして、初代の高弟であった重宣(二代)、重政(三代)へと引き継がれ、その後は縁あって菊池貴一郎(四代)、その次男寅三(五代)と、昭和の半ばまで広重の名前は続いたのです。
歌舞伎や落語(近頃では講談の神田伯山も)など、興行筋や取り巻きから不在となった大名跡の襲名はいつの世も期待されるところで、同じことが版元筋から求められたのかも。広重の養女・お辰に入り婿して二代目となった重宣は、名所絵の伝統を受け継いだようで、「開港されたばかりの横浜の外国人や洋風の建築をモチーフにした横浜絵を手がけ」たりもしたそうな。
ところが、6年ほどでお辰と離縁して、喜斎立祥と名を改めた二代目、横浜絵に本腰を入れるとともに「当時輸出が増えていた日本茶の茶箱のラベル(茶箱絵)を多く手がけ「茶箱広重」とも呼ばれ」るようになっていったのであると。
と、二代目が広重の名を捨ててしまったものですから、二代目の弟子であった重政が(また!)お辰の入り婿になって三代目となることに。活躍時期はもはや明治の世となって、いわゆる「開化絵」を多く手がけたようで。「明治の鉄道錦絵は総数約330点のうち100点近くが三代広重の作品」とは、相当に鉄分が多かったのかもしれませんなあ。
で、展示解説には「縁あって」と紹介される四代目・菊池貴一郎ですけれど、襲名以前に「二世立祥」を名乗っていたことがあるようで、要するに二代広重について学んだ時期があるのではないかとも考えられて」いるとか。そのことを含んだ上かもしれませんが、喜一郎が初代広重の菩提寺に出かけた折、無縁墓になってしまっていたことから、寺の住職に「昔は縁があったのだから、名跡を継いだらどうか」と言われたということでありますよ。「後年は家事の画家として…知られ」たとは、もはや名前だけ継いだということになりましょうか。
最後の五代目は四代目の次男。五世広重の名で昭和7年(1932年)に「江戸の今昔」という著作を残したそうですが、「色紙、団扇絵、月次絵などを手がけ、ひょうたんをよく描いたことから「ひょうたん先生」と呼ばれていたと。やはり初代広重の名残は無しでしょうかね。それにしても、五代目が亡くなったのは昭和42年(1967年)とは、江戸の絵師・歌川広重の系譜はまがいなりにもそんな昭和の頃まで続いていたのでしたか…。少々、感慨深くもありますなあ。
展示では、広重らしいのか、らしくあらぬのか、そんな各代の作品がいくつか紹介されていましたけれど、画像で振り返ることができない(何しろ接写不可で)のがなんとも残念なところです。ともあれ、名前を継ぐことが当然に求められている世界が今もいろいろありますけれど、なかなかに難しくもあろうなあと思ったりしたものでありますよ。