川崎まで足を運んだとなれば、ついつい立ち寄るのが川崎浮世絵ギャラリーでして。3月に前回展『錦絵の誕生~師宣、春信から歌麿、写楽まで~』を覗いた際に「次回展も面白そうではないかいね」と思っていた『エキゾチックYOKOHAMA!横浜浮世絵展』の後期展が開催中、これを見て来た次第です。もっとも先月のミューザ川崎・ランチタイムコンサートでサクソフォン・カルテットを聴いたときに、すでに前期展をひと巡りしておりましたので、前期・後期併せて触れる点にはご容赦のほどを(前期展の作品は展示されておらないわけで…)。

 

 

江戸期、鎖国という状態の中で独自発展した浮世絵(とはいえ、ベロ藍が輸入されたり、西洋銅版画で遠近法を学んだりということはあったわけですが)。その中で人気を博したシリーズものに「名所絵」がありまして、今ならば旅行ガイドブックや絶景写真集といった受け入れられ方がされたものと思いますけれど、「見たことの無いものを見せてくれる」ことへの期待感、これは明治になって庶民の間になおのこと募ったかもしれませんですね。なにしろ、周りの景色、風俗が見る見る変わっていったわけで。

 

取り分け日米修好通商条約に基づく開港場として、明治維新に先駆けること9年、安政六年(1859年)には外国人に開かれていた横浜は、新奇なるものがざくざくあるとして衆人の耳目を集める場所となったことでありましょう。横浜の「これまで見た事のない新奇な物事」を扱った、いわゆる「横浜浮世絵」は開港翌年(万延元年)には出回り始めたということですから。

居留地で生活する外国人達の姿は、衰退しつつあった浮世絵師にとって格好の画題となり、多くの絵が描かれました。

展示解説にはこんなふうにありましたが、当初は黒船に始まり、文字通りに遠目に見たものを(時には想像だけで)描いていた浮世絵師たち、最初のうちは御咎めあってはかなわんと、遠慮しいしいだったところが、もそっと大胆に外国人の生活そのものに踏み込んでいったりも。街並みよりも外国人そのものに大衆の関心はあると気付いたからもありましょう。

 

といって、実際に外国人家庭に取材して描くというのはなかなかできないことだったろうと思われますので、「輸入された銅版画や新聞挿絵などを参考に」していたところはあるようです。どうも歌川国芳門下に横浜絵を手がけた絵師が多いようですが、歌川芳員による「横浜異人屋敷之図」(文久元年、開港の2年後くらいですね)は正に外国人家庭の家の中を描いて、シャンデリアの下がるダイニングには大きなテーブルと椅子、火の焚かれた薪ストーブの上にはフライパン(見た事のない調理器具だったでしょうか)で何やら調理中といった具合です。

 

こうした、見えないところを透かし見る趣向は、停泊する外国船の内部を描写したり、開港に合わせて誕生した港崎(みよざき)遊郭(今の横浜公園のあたりにあったそうな)の岩亀楼で豪遊?する外国人の姿を描いてみせたり。それが昂じますと、そも外国人が海の彼方で住まっている都市、ロンドンやパリやワシントンなどを紹介する絵まで登場するのですけれど、もちろん絵師たちが直に見たはずもないわけで、先ほど触れたように外来ものの挿絵などに頼ってようですな。

 

それだけに大きな誤解で描かれている絵もありまして、歌川芳虎(やはり国芳門下)の「仏狼西国」(慶応元年)と言う一枚には、高いヤシの木が生えている背景に大きな山が描かれて「これって(当時、フランスの植民地であった)タヒチなんじゃね?」という具合。芳員作の「亜墨利加洲内華盛頓府之景銅板之写生」(文久元年)も銅板画を写したものとは正直ながら、ワシントンを描くのに「スペインの風景画からの借用が指摘されている」とは。参考画像として掲示されていたジョン・フィリップ作の「井戸端会議」から、確かにもってきてしまっているなあと(ちなみにジョン・フィリップという画家はスコットランドの人ながらスペインで活躍し、スペインを題材にした作品が多いという)。

 

ところで、横浜港の特徴的な施設として知られる「象の鼻」も明治以前にその形が出来ていたのですなあ。そもそもは開港場として日本の波止場を築造し、東波止場を外国人用(海外交易用)、西波止場を日本人用(国内用)としたようでして、これが慶応二年(1866年)の大火の翌年、東波止場を長く湾曲させて作り直したことが出自であるそうな。ちなみに、当時から形状を見て「象の鼻」と呼ばれたことがWikipediaに紹介されていますけれど、文久二年(1862年)に横浜に象が持ち込まれていたのであると。翌年には江戸・両国の見世物小屋に移されて大評判となったあたり、歌川芳豊(これまた国芳門下)が「天竺馬爾加国産大象西両国広小路に於て興行」で描いておりますよ。

 

ということで今となっては面白おかしいものと見ることができるわけですが、その一方ではそも小さな漁村であった横浜がどんどん町らしくなり、近代化していき…という変わりようを見せてくれるのでもある「横浜浮世絵」。突っ込みどころ満載でもって、思い巡らしが果てしなくなりそうな展覧会なのでありました。