バッハの『ヨハネ受難曲』を聴きに川崎まで出かけたついでに、折しもざばざばと降る雨の中でもほぼほぼ濡れずに駅から到達できる川崎浮世絵ギャラリーに立ち寄ったのでありますよ。会期終了間際ながら「錦絵の誕生~師宣、春信から歌麿、写楽まで~」という展覧会が開催中だったものでして。

 

 

後に多色刷りとなって、文字通りに「錦絵」という名の与えられる浮世絵は、延宝から元禄の頃に「浮世絵の始祖」とも言われる菱川師宣の墨摺一枚絵から始まったということでありますね。「錦絵の誕生」とうたう本展では、当然のように師宣の墨摺絵から展示が始まっておりました。延宝後期頃の作という「上野花見の躰」と「化粧 毛剃り」を見れば、墨線のみとはいえ、そののびやかな線描は清々しい印象で、人気を呼ぶ源であったろうかと。

 

浮世絵は一枚十六文、要するにに八そばと言われるかけそば一杯の値段(二×八=十六というわけで)が相場だったようですが、これは果たして庶民に手が届くものであったのかどうか。そばをやせ我慢しても欲しい絵を手に入れるとは、江戸っ子が(背伸びして)気風を見せることにもひと役かっていたのかもしれませんが、それも世の中が天下泰平になってきていたからでもあろうかと。「上野花見の躰」に見る行楽シーンなどはまさにそうしたご時世を映してもいるのでしょう。ちなみに師宣は肉筆画も手掛けていて、一点展示もされておりましたよ。

 

師宣の後には奥村政信らが出て、線描のバリエーションが豊富になるとともに、手彩色による丹絵や紅絵が登場してきますが、いわゆる美人画の類は終始一貫、人気の画題だったと思われるも描かれる女性像には変化がありますですね。浮世絵の女性像として思い浮かぶのは、もそっと後に大人気を博す喜多川歌麿あたりの描くところが思い浮かびますけれど、「豊満で堂々とした人物表現」で知られた懐月堂安度といった絵師もいたようで。その弟子である懐月堂度繁の「遊女立美人図」など、野原みさえ風面立ちでなくして些かボーちゃん的であったりも(例えとしてどうかとは思いますが…)。

 

そんな変遷の中では、後に女性像として定番的イメージを獲得する歌麿あたりとも(もちろん懐月堂とも)異なるところで、現代の指向にもつながる?細身重視の女性像として出てくるのが鈴木春信となりましょうか。以前、三井記念美術館の展覧会で見て、「多色摺木版画の新しい技術を考案し」て「錦絵」への道を拓いた重要人物でもある春信ですが、ここへ来て改めてその作品に見入ることになったのでありますよ。もちろん、美人の絵姿というばかりでなしに(笑)。

 

七枚揃いのシリーズ画である『風流やつし七小町』などは題材も含めて興味深いものと思うところでしたが、これはひと頃に少々、小野小町の探究に勤しんだりもしたという個人的事情もありまして。絶世の美女であったとされる小町を巡っては、老年にその容色の衰えに絡み、さまざまな伝説が生まれるわけですけれど、そも小町を気にかけたきっかけとしてEテレ『古典芸能への招待』で見た能『卒都婆小町』を始め、実にいろんな話が伝えられたようで(有名税みたいなものですかね)。

 

『風流やつし七小町』ではそんな小町にまつわる7つの伝説を取り上げて、直接に老齢の小町を描き込むのではなしに、捻りを加えて判じ絵のようにしているところがまた興味深いところでしょうか。こうした作品が作られた背景としては、展示解説に「春信の錦絵は、富裕層や文化人をターゲットにしていました。一見すると風俗画のようでいて、古典や故事、説話に関連づけられる作品が数多くあります」とありまして、この『風流やつし七小町』もまさに。

 

シリーズ中の『草紙洗』なる一枚は、子供が文字の書かれた草紙を洗い桶の水で流してしまおうとしているのをお母さん(?)が「あらあら」と見下ろしている場面にように見える絵柄です。が、しかしながらその実、小町と大伴黒主との確執を描いたものだったわけで。

 

宮中の歌合わせで、なんとしても小町に負けたくない黒主は小町の家に忍び込み、歌合わせで披露される予定の歌を盗み見てしまうのですな。で、当日に小町がまさにその歌を披露するのを見た黒主、「その歌は盗作である。なんとなればこの本(草紙)に出ているではないか」と証拠を突きつける。この証拠とやらは予め歌を盗み見ていた黒主が、本の内容を都合よく書きかけていたという。

 

ところが、証拠が偽物と見破った小町がどれどれと本を洗い流してしまう。事が露見して大恥をかいたのは黒主でありました…という顛末を踏まえて、春信作品では小町を子供に、黒主を母親(?)に見立ててあるという次第。この逸話もまた『草子洗小町』として能の演目にあるのだそうでありますよ。

 

ところで、浮世絵が「浮世」の絵であることからすれば、そこに当時の世相を見出すことができるわけですね。例えばですけれど、勝川春章の『江都勧進大相撲浮絵之図』では天明八年(1788年)頃に描かれたその時代のようすとして、両国は回向院で行われた相撲興行を描いて、土俵を取り巻くひとひとひと…。立錐の余地無しといったようすは(誇張があるにもせよ)当時の相撲人気を物語るものでもあろうかと。

 

人気力士ともなれば大層な稼ぎがあって肩で風を切って歩くふうでもあったことでしょう、そんな思い上がりが歌舞伎『神明恵和合取組(かみのめぐみわごうのとりくみ)』の元となった、いわゆる「め組の喧嘩」を生んだのであったのかもしれませんですね。

 

ということで、最後の方に展示数の多くあった喜多川歌麿あたりにまで話は及びませんでしたけれど、あれこれ面白く見て来た展示でありましたよ。次回展に予定されている『エキゾチックYOKOHAMA!横浜浮世絵展』とやらも面白そうですなあ。