歳をとるということとどれほど関係があるのかは分かりませんけれど、

若いころにはいささかも興味が無かった和モノの芸能にも関心が向きつつわるわけでして、

Eテレで放送される「にっぽんの芸能」や「古典芸能への招待」を欠かさず見ているのですなあ。

 

とはいえ内容によっては、気づけば途中で舟を漕いでいたりもしてしまい、

和モノといってことごとく食いつけるものでもないという、こちらの心構えというか、趣味嗜好というか、

そういう尺度もある一方で、相手側(要するに芸能の種類)によってはどうにも相変わらず敷居が高いものも。

分けても「能」はなかかなかに難物であるなという意識を拭えないのですよねえ…。

 

そんな中で、先々月、10月末に放送された「古典芸能への招待」で見た能「卒都婆小町」には

何故かしら引き付けられるところがあったのですなあ。番組の中で誰しもが言及しておりましたように、

観世宗家に伝わるという、小野小町を演じるシテの使った面の、もはや老境の女性として憂うることばかりの中、

そこはかとない色気を湛えた造作は類稀なるものに思えましたし、それを掛けて演じられた小野小町にも、

(途中から深草の少将の怨霊が憑りついてしまうにもせよ)ぐぐっと引き込まれるところがあったのでありますよ。

 

と、ここで「能」への入り口が開けたとは言いませんけれど、元来、平安期の出来事や人物、

さらには和歌そのものにも極めて疎い者としては、そういえば小野小町とは誠に有名どころながら

果たしていったいどんな人であったか?との思いが湧いてきたのですなあ。

 

そこで、近隣の図書館で「小野小町」を検索するも、もっぱら和歌に関する本ばかり。

どうも小野小町という人は、極端には「本当に実在した?」というところまで含め、

その人物像がよく分かっていないのでもあるようで。

 

それだけ謎?な人物ならば、小説としてその空隙を埋めたものでも読んでみるかと、

結局のところ手に取ったのは『小説小野小町「吉子の恋」』という一冊でありました。

 

 

Wikipediaの紹介には「仁明天皇の更衣(小野吉子、あるいはその妹)で、また文徳天皇や清和天皇の頃も

仕えていたという説も存在するが、確証は無い」てなふうにもあるわけですが、そこはそれ、小説ではこうと、

設定を決め打ちするのですな、想像を働かせて。

 

ここでは出自として小野篁の娘ということにして、即位前の文徳天皇へ出仕するも、

通ってきたのはその父親・仁明天皇でした…というところから始まって、

なにしろ名にし負う美人で、歌詠みとしても才女と知られる小町のところへは誰かれなく懸想が…。

 

まあ、小説的誇張があるのかどうかはさりながら、

そうはいっても平安時代の恋愛事情はこんなものだったのであろうかいねと、

現代の感覚からすれば「開いた口が塞がらない」ようにも思えるわけなのですね。

ただ、そんな受け止め方ですと、すでにして数々の和歌に歌われた恋模様などにも

結局眉間に皺を寄せて接することになってしまうことに。今とは違うのだと思わねば、ですなあ。

花の色は移りにけりないたづらに我が身世にふるながめせし間に

ところで、さすがにどんなに和歌に疎くともこれが小野小町の歌だとくらいは知っているわけですが、

晩年をしみじみ思う小町の姿でしょうか。先の謡曲「卒都婆小町」なども、なれの果て的姿でしたですね。

まあ、この小説ではかほどに落ちぶれた感で描かれることはなかったのですけれど、

晩年の小町の前に現れた一人の若者、小町のことよりもむしろこの若者の語りように

「ほお」と思ったりしたのでありまして。曰く、自分は「歌人」になろうとしておると。

 

一般に「歌人」といったときにはほぼほぼ歌を詠む人と同義であろうかと思いますが、

とりわけ優れた歌をたくさん残して、夙に歌詠みとして知られる人と言ったらいいでしょうか。

例えば「六歌仙」と言われるような人々とか。小野小町のその一人でありますね。

 

一方、現代の感覚で「歌人」という場合には、単に歌を詠む人という以上に、

歌を詠むことを生業としている人、職業的な側面が感じられるような。

先の若者が言っていたのは、こうした職業歌人といったものであったのですなあ。

 

この小説にも小町自身をはじめ、多くの人たちが作った歌が引き合いに出されておりますが、

基本的にそれらの歌は個人的な恋情を伝えたりするものであったりするわけで、

当然にそれらの歌を詠むことで生活しているわけではないのですよねえ。

 

ですので、この時代に本当に職業歌人的な意識の芽生えがあったかどうかは

むしろ小説の脚色と考えた方がいいのかもしれませんけれど、非常に個人的な思いを歌った、

例えば上に引いた「花の色は…」といった歌(そこに普遍性が見いだせるとしても)とは異なって

個人の思いを越えた高みから情景などを歌い上げる方向へのシフトも必要になろうかと思うところでして、

このこともまた大きな変革であろうと思うでありますよ。

 

ちなみにここで出てくる若者とは凡河内躬恒、のちに三十六歌仙のひとりとされる人物ですが、

その当人の歌をひとつ、引いてみるといたしますか。

春の夜の闇はあやなし梅の花色こそ見えね香やは隠るる

なんだか「なるほど」と思えることには、確かにこの歌には自分自身の姿は見えてきませんですね。

梅の香りが素晴らしいという、誰にも「そうだよね」ということを詠んでおりますな。

どうやら個人的にはこういう歌の方がすっと受け止められそうに思ったりもするところです。

 

とまあ、話は小野小町から離れてきておりますが、

これまで近づきにくいと感じてもいた和歌の世界にもいろいろあって、

もしかするとアプローチのしようがあるのかもしれんと思い立ったものなのでありました。