駿府での山岡・西郷会談 、そして江戸での勝・西郷会談によって
江戸は官軍に明け渡され、徳川慶喜は謹慎の地を水戸へと移したわけですが、
存在するだけで求心力にもなりがちな前将軍が江戸の北方にいる、
これは、官軍が会津へ向け、北へと進軍する中であんまり気分のいい話ではなかったでしょう。


何せ本人にはもはや全くもって刃向うつもりはなかったでしょうけれど、
江戸幕府を精神的なよすがとする者たちにとって
慶喜は担ぐべきシンボルであったことでしょうから。


そこで、1868年8月、慶喜謹慎の地は駿府へと移されることに。
何しろ謹慎ですから、豪勢な御屋敷など必要とされるはずもなく、
駿府でまず慶喜が入ったのは宝台院というお寺さんでありました。


「徳川慶喜公謹慎之地」碑@宝台院


これ、このように境内には「徳川慶喜公謹慎之地」と碑が建てられていますけれど、
慶喜がここで起居したのはほんの1年余り。


むしろ、この宝台院と徳川家との関わりは二代将軍秀忠の生母の菩提寺としてでありましょう。
子だくさんの家康にとって三男にあたる秀忠の母である西郷の局(お愛の方)は
家康が浜松にあって勝ち上がって行く過程を支えた人であったそうな。


没年は居城を駿府に移した3年後の天正17年(1589年)とのことですから、
我が子秀忠が将軍職に就くといった晴れ姿は見られずじまい。
逆に、将軍となった秀忠は母親のために盛大な法要を営んで供養し、
それ以降、宝台院は徳川家の庇護を受けてきたそうでありますよ。


西郷局(お愛の方)之墓@宝台院


と、話を慶喜に戻しますが、宝台院に入った翌1969年の10月、
慶喜の謹慎という処分は解けたらしく幕府時代に代官屋敷であった場所に、
慶喜は住まいすることになります。


「徳川慶喜公屋敷跡」碑@浮月楼


ここが今では「浮月楼」という料亭になっておりまして、
1940年(昭和15年)の大火で建物は焼けてしまったそうですが、
元通りに復旧された庭園(平安神宮を手がけた小川治兵衛の作という)だけから察しても、
もはや謹慎上がりの身で住まう場所とは思えないような気がしますですね。


ちらり覗かせてもらった浮月楼庭園


かといって駿府城には、徳川宗家の跡目を引き継いだ家達が入っており、
家達にしても前将軍をあんまり近くに置きたくもなし、かといって粗略にもできず、
また目を離して妙な企みを起こされても困る…微妙な思いだったのではなかろうかと。


そうと知ってか知らずか、慶喜の側としては
隠し事などありませんよということを態度で見せるつもりだったのでしょうか、
「自転車、写真撮影、油絵、狩猟などと多彩な趣味を楽しまれた」(浮月楼由緒より)そうな。


静岡市観光自転車ネットワーク協議会レンタサイクル・スティッカー「けいきさん」



そんな慶喜の姿を思い出させることになるのが、このスティッカーと言えるかも。

静岡市のレンタサイクル貸出所に貼ってあるものですが、
右下に配されたキャラクターには「けいきさん」とのネーミングが。


とまれ、ここの屋敷に20年住んだ後、同市内の西草深(駿府城の北西側)に移り、
1897年江戸、というか東京に戻るまで留まりますので、
生れてから将軍になるまでが30年であったことを考えると、
慶喜の隠遁生活はずいぶん長いものだなという気がしてきます。


徳川幕府の存続にはもはやこの人しかいないと表舞台に颯爽と登場した慶喜が、
表舞台にいた期間(慶喜のカリスマが輝いた期間)の何と短いものであったことか。


そうなってしまった背景に幕末動乱があったことは事実ですけれど、
巻き込まれていった人たちとはそもそも違う存在であった慶喜がこうなってしまったのは
どうしてなんでしょう。


幕末における慶喜の言動(例えば密かに大阪城を抜け出して江戸へ戻ってしまうとか)には
どうにも一筋縄ではつかまえきれないものがあるような気がしますですね。


これまた予習的な意味合いで「慶喜のカリスマ」なる一冊を読み、
何となく分かったことは簡単に言うと残念ながら大将の器では無かったてなことでしょうか。


ただし、時代を見る目は持っていたようで、慶喜なりのシナリオによれば
これまでの形で幕府の存続を図るのは無理と見ており、そこで将軍を大統領とし、

雄藩藩主から構成する上院と各藩代表者を集める下院の二院による議会を設け…
といった構想を秘めていたてなこともあるようです。


慶喜のカリスマ/野口 武彦


結局のところ、明治維新は薩長と岩倉等公卿とが結んた新政府で仕切られていきますが、
イギリス流の王は「君臨すれども統治せず」とは離れて、天皇を現人神として大権を認め、
それがやがては統帥権の独立と言った理屈を捻り出させることにもなったですよね。


慶喜構想に従えば明らかにうまく行ったとは限りませんけれど、
その後の日本のかたちは随分と違ったものになっていたろうとは想像させられるところです。

ま、歴史に「もし…」は詮無い話ではありますが…。


浮月楼@静岡市葵区紺屋町