新型コロナウイルス感染症対策として、相も変わらず聞こえてくるのは「不要不急の外出自粛」ばかり。

コロナ禍と言われるようになって久しいわけですが、コロナ慣れなどとも言われつつも庶民感覚として

何がよりリスクが高いのかといったことを(素人考えでひとそれぞれながらも)学習してきている一方で、

金太郎飴のように「不要不急の外出自粛」とは…。

 

それを鵜呑みにして出控えているわけでは必ずしもありませんけれど、

各人なりの学習成果として傍目でみれば自由に動き回り、旅行などにも出かけている方々がおられよう中で

多摩に逼塞しているとなんだかばかばかしくもなってくるところです。

 

せめても多摩地域の中で出かけられると思っていた企業ミュージアムまで新規予約中止となってしまい、

(あ、これは前にも触れましたですな)どうしたものであろうかと思うところです。

 

考えてみれば、だんだんとイベント開催が許容され、人数の上限も緩和されたりしていった中、

かなり遅くまで閉館を迫られていたのが博物館・美術館でしたですね。

 

庶民的なコロナ学習成果としては、博物館・美術館での感染リスクは(大がかりな展覧会を除けば)

かなり低いものと想像できるだけに、これは何としたことであろうと思ったわけですが、

日本に博物館を作ることに生涯を懸けた人物の物語に接するに及び、

文化と不要不急との天秤の掛け方に思いをいたしたりしたものでありますよ。

 

 

手に取ったのは志川節子の小説『博覧男爵』という一冊でして、

信州・飯田藩の医師の息子として生まれ、医学、本草学、やがては博物学に没頭し、

後の東京国立博物館、国立科学博物館、上野動物園などに繋がる施設を開設すべく立ち回った

田中芳男の生涯をたどるお話です。田中は日本の博物館の父と言われているそうですな。

 

田中がまだ医学修業にある時のこと、どうやら本草学(後の薬学・植物学でしょうか)の方に

うつつを抜かしていると聞き及んだ父親が「そんなことはでは医学が疎かになるではないか」と叱るのですね。

樹木に例えれば医学こそ幹であり根であって、本草学は枝葉であろうと。

これに対して、臆することなく田中が父にこんなことを言うのですなあ。

木は地中に張った根から養分や水を吸い上げますが、葉も光を受けて自ら養分をこしらえます。両方の養分がなければ、実は生りません。どちらか一方が主で、他方が従なのではなく、互いに支え合っていると申せばよいでしょうか。医術と本草の間柄も、また然りかと。

この視野の広さがやがては田中を博物学へと導き、博物館設立へと情熱を傾けるようになるのでしょうけれど、

大きく背中を押すことになったのは1867年のパリ万博。江戸幕府が初めて参加した博覧会ながら、

同時に薩摩が(さらには佐賀も)独自の展示ブースを作って臨んだことは

先に読んだ『万波を翔る』にも記されておりましたが、そのパリ万博です。

 

当時の田中は幕府の展示を取り仕切るような仕事でパリに随行したわけですが、

合間合間の見聞で訪ねたパリ植物園(動物園もあり、鉱物見本などの自然史展示もある)に大いに触発されて、

帰国後にはこんなことを熱く語るのでありますよ。

百聞は一見に如かずと申しますように、そこを訪れる人々は、まさに実物を見て見識を深めることができます。文字の読めない人にもわかりやすく、子供にも興味を持ってもらえるでしょう。ひとりひとりの知見に厚みが増せば、国全体の底力も上がろうというもの。手前は、ジャルダン・デ・プラント(パリ植物園)をこの日の本に作りたいのです。

動物園、植物園というといささか遊興施設であるかのようにも受け止めてしまうところながら、

博物学の観点から考えれば、すべて啓発施設であり、学習施設であり、また研究施設なのですよね。

今とは時代の違いから、すべて田中の言うとおりとは言えませんけれど、博物館運営に対する志が

感じられるではありませんか。翻ってみれば、今のお上はむしろ遊興施設だと思っているのでありましょう。

 

ともあれ、個人的にはさまざまに知見を広げに出かけていきたいところながら、

このままならずご時勢はいったいいつまで続くことやら。もっともこの程度の嘆きは、

博物館開設に至るまでの田中の苦労を思えばなんぼのものでもないとは言えましょうけれど。