風邪で臥せっても恢復期となってきますと、ただ寝ているのがしんどくなってきますなあ。そんなときはTVを見るか、本を読むか。このほどはどちらかというと、本を読む方向に行ったわけですが、幸いにもさほどに重くない本を図書館から借りてきてありましたのでね、幸いでありましたよ。

 

先日に東京・小平市のガスミュージアムを訪ねたお話を振り返った際、気象業務150周年に絡む展示のことに触れたですが、150年の歴史をたどる年表に「昭和40年(1965)富士山レーダー誕生」なんつう一項があったのを思い出したり。

 

で、新田次郎の小説に、確か富士山レーダーの建設話があったなあ、そして思い返せば新田次郎自身、元は気象庁の職員であったのだっけと。そんなところから探し出しのが、『富士山頂』という一冊でありましたよ。

 

 

実際のところ、新田次郎は単に元気象庁職員であって…というだけでなくして、昭和38~39年のレーダー建設にあたっては技術系の測器課長としてプロジェクトの中心にいた人物であったとは。文庫の表紙には富士を望んで事務机に着くおじさん職員の姿が配されておりますので、何やらのほほんとした印象が醸されるものの、プロジェクト自体はそんなのんびりムードとは正反対にあったことは、ま、言わずもがなでありましょう。

 

登場する人名や会社名は全て実名を離れたものであるにせよ、実際のプロジェクト・ベースなだけにおよそそれぞれに特定が可能であろうかと。それをこんなふうに書いちゃっていいのかいね?とも思ったりしたものでありますよ。もちろん、あれこれフィクションを織り交ぜているものとは思いますが、うっかりすると全て実録のように受け止められたりもするでしょうしね…。

 

ともあれ、大蔵省(当時)への富士山レーダー予算要求から発注業者選定、着工までを描く第一部では、金を握る大蔵省の偉そうなことと、その利権に群がって「ぜひともわが社に」という業者たちの暗躍(もはやそうとしかいいようがない)は企業小説の面持ちですな。

 

第二部は富士山頂に巨大レーダーをくみ上げるという工事の苦労がさまざまに語られますけれど、とにもかくにも3776mという高所であると同時に、独立峰であるが故の遮るものの無いふきっ曝しの場所であることの困難は山岳小説風も盛り込まれてあるわけです。ここいらの描写には、作者の経験がものを言ってもおりましょう。

新田次郎は昭和七年に中央気象台に入ったが、以降十二年までの間に、毎年三ないし四回、一月交代で富士山観測所に勤務したそうである。滞頂日数は通算四百日にのぼり、富士山についての感懐もひとしおだった。(巻末解説)

完成後には実際の運用に向けて、今度は電波局のせめぎ合い?が生じたりするあたりを第三部で描き、主人公の測器課長は道筋が付いたことを潮に、気象庁を勇退、予て二束のわらじで臨んできた作家一本で立つことを決意するのであった…とは、自伝的要素もまたありかと。現実の当人もレーダー完成後の1966年に気象庁を依願退職してますし。

 

ちなみに2000年3月に放送の開始されたNHK『プロジェクトX〜挑戦者たち〜』の第一回が富士山レーダー建設を取り上げたものであったそうな。「巨大台風から日本を守れ ~富士山頂・男たちは命をかけた~」というサブタイトルが示すとおりに、1959年の伊勢湾台風ほかにより甚大な被害が出ていたことを受けて、一刻も早く台風進路予測を国民に届けるために富士山レーダーは作られたのであると。

 

建設当時、世界最高所に置かれた気象レーダーとなったようですけれど、時を経て現在はもはや気象衛星が富士山よりも遥かに高いところから見張っているような具合。1999年には役割を終えていたのでしたか。

 

今現在は、山梨県富士吉田市に移設されて「富士山レーダードーム館」となっている…となれば、出かけてみようかと思うところですが、富士山周辺は(場所にもよりましょうが)多言語が飛び交う賑わいの中にあるやもしれず、折を見てとしておきましょうか。

 

ちなみに富士山に登る?という点では、もとよりそのつもりもなかったですが、本書を読んでなおのこと、「富士は眺めてこそ良し」と嘯いているだけにしようという気持ちが弥増したものでありましたよ(笑)。