このところ見に行く美術展はおよそ浮世絵関係に偏っておりましたですが、久しぶりに版画の展覧会に出かけてみたのでありますよ(このほど寝込む前のことですけれどね)。フライヤーを見たところから受ける静謐な印象に促されて、武蔵野市立吉祥寺美術館を覗いてみた次第です。
『宮本典刀―街の記憶―』という展示は、(失礼ながら)作家の名前も知らず、作品もこれまでに見たことはなかったですけれど、「どこかにある、どこでもない、街の風景―。銅版画家・宮本典刀は、いわく「心のなかに沈んでいる記憶」を丁寧に拾いあげ、それらを再構築して、街の風景を描いています」とフライヤーに紹介されるとおりの作品世界は、必ずしも既視感を覚えるようなものではないにもせよ、やはりノスタルジーとも通じる記憶の琴線に触れるものであったと思いましたなあ。
油彩画から版画の世界に移ったという作者は、初めのうちはエングレービングといった古典的な銅版画手法、本人曰く「銅版画は元来、禁欲的な起源をもっている」というように、アルブレヒト・デューラーの作品あたりを思い出させる手法を用いてもいたようですが、やがて「エッチングのように線の表現ではなく面を表現するときに用いられます」というアクアチントに向かうように。上のフライヤーに配された作品も、アクアチントによるものですねえ。
作者は日常的にも、あるいは旅先でも大通りから狭い路地裏まで歩いまわるそうなんですが、途中でスケッチをしたりメモをとったりということはしないというのですね。見かけた風景が自身の記憶の中に積み重なって行き、それらを使って画面に再構築する形であると。「どこかにある」が「どこでもない」風景はそうしてできあがるようで。
それにしても、フライヤーの作品からも想像できましょうけれど、この静謐感はどうでしょう。思い出すところは、ジョルジョ・デ・キリコの形而上絵画やシュルレアリスムの作品、そして日本の作家では岡鹿之助とか。これらとの共通点は(全く無いではないもの)人が描き込まれることが至って少ないことも関わっていようかと思うところです。
と、そんなイマジナリーな街の風景に取り囲まれてきたわけですが、作者のことを紹介する説明の中にかような一文がありましたですよ。
「色を見ると音が聴こえる」、あるいは「絵に音を見る」と宮本は語っており、絵画作品などに向き合うと、そこにはおのずと音を感受するといいます。
いわゆる「共感覚」の持ち主というわけですなあ。となれば、本人の作品自体でも「絵に音を見る」ことはありましょうから、作者自身としてはその絵画世界にどんな音を聴いているでしょうかね。
静謐な画面にはやはり静謐な音楽が…と思うところですけれど、必ずしも音楽の趣味嗜好がその絵画世界と比べて「なるほど」と思えるとは限らないようですな。よく聴く音楽はといえば、マーラーやリヒャルト・シュトラウスであるというのですから、なんとも濃厚なといいますか。ずいぶん印象としては離れたところにあるような気がしたものです。
ところで、マーラー、R.シュトラウスと併せてもうひとり、よく聴く作曲家として名前があがっていたのがフェデリコ・モンポウでありました。スペインの作曲家、1987年まで生きた現代の作曲家、そして作品の多くがピアノ曲である作曲家、どの部分をとっても多くの人に馴染みあるものではないような。個人的には、聴いたことあったかな…と。ですので、後追いながらもピアニスト・熊本マリによるモンポウ作品集のCDを近隣図書館で借りて、聴いてみたのでありますよ。
ひと言でざっくり言い放つのは適当でないもしれませんですが、マーラー、R.シュトラウスに比べると、圧倒的に本展の作品とも通い合うイメージであったような。ひたすらに「静謐」とばかり言い続けるのもまた適当ではないのでしょうが、作者の絵画世界に入り込んでイマジナリーな街並みを散歩として、そこはかとなく聞こえてくるとすれば、やっぱりモンポウのピアノ曲であろうと。
1893年生まれのモンポウは、20世紀初頭の文化的な錯綜の中にあっておそらくはエリック・サティあたりにも影響を受けたのでしょう。穏やかな中、時に意表を突く展開があったりすることもサティを想起させますけれど、サティの持つ諧謔性といったものから離れて、至って淡々としているというか、恬淡としているというか。
あいにくと?個人的に共感覚は持ち合わせておりませんが、モンポウのピアノ曲を聴きながら展覧会を思い返してみますと、絵画と音楽の共振を感じたりしたものでありましたよ。